性的欲望とは何か?
──現象学と概念分析*
魚住洋一
概要
From the late 1960s,
philosophical discussions on sex opened up in
Nagel used Sartre's argument as a stepping-stone and considered "mutual interpersonal awareness," in which two people "sense" each other's sexual arousal and build up their arousals even more, as the norm of sexual activity, and thus defined sexual activity that lacks such reciprocity as sexual perversion. However, I consider the problem in his argument to be in the simplicity in drawing the "norm" of sexual activity from the phenomenological description of a certain sexual activity. Solomon, who proposed the communication model that regards sexual activity as a type of body language that communicates various feelings, is a philosopher who also built upon Sartre's and Nagel's foundations, and his argument also carries many problems such as the possibility of there being other means to convey feelings.
On the other hand, Goldman defines sexual desire as the desire for the pleasure of physical contact with another person. His definition served as a criticism of the idea that sex is a means for purposes such as reproduction, expression of love, communication, and interpersonal awareness. Soble points out that Goldman's definition excludes masturbation, which does not require physical contact with other individuals, from sexual activity, and thus presents his further simplified definition of sexual desire as the desire for certain pleasurable sensations. However, then it becomes difficult to identify the sensations that can be defined as sexual. Soble acknowledges the problem and states that this problem is beyond the scope of philosophical analysis and should be in the hands of empirical disciplines. In addition, according to Soble, how an individual comes to seek for sexual pleasurable sensations varies with his or her social conditions.
Considering the above, both the phenomenological description and conceptual analysis contain flaws, and my conclusion is that only social constructionism can solve the question of what sexual desire is.
Keywords:セックス、性的行為、性的欲望、現象学、概念分析
日本ではほとんど紹介されていないことだが、一九六〇年代後半から、当時のいわゆる「性革命」、あるいは、フェミニズムやゲイ・リベレーションの運動から影響を受けながら、英米の哲学界においてセックスについての議論がはじまった[1]。そうした議論の先駆けとなったのは、トーマス・ネーゲル「性的倒錯」(一九六八年)、ロバート・ソロモン「セックスのパラダイム」(一九七四年)、アラン・ゴールドマン「プレイン・セックス」(一九七七年)などである。なかでも、「現代のセックス哲学の幕開けとなった」[Soble 2008b:41]といわれるネーゲルの「性的倒錯」は、サルトルの『存在と無』を手掛かりとしながら、性的興奮についての「現象学的」な記述を行なったものであり、その後セックスについての哲学的議論を主導したアラン・ソーブルなどがきわめて「概念分析的」な立場に立つのに対し、対照的な議論を展開している。
私はここで彼らの議論を取り上げたいが、それというのも、セックスというテーマに関して、売買春やレイプ、ポルノグラフィといった応用倫理学的問題に立ち入るまえに、「性的」とはいったいどういうことか、われわれが行なう行為を「性的」にするものはいったい何なのかという問いに対し、現象学的記述と概念分析の双方がどう答えることができるか、何らかの見通しを得ておきたいからである[2]。
ただ、あらかじめ断っておきたいのは、私がここで問題とするのはあくまでも英米の哲学における議論であり、「現象学的記述」といっても、ここで直接取り上げるのは、セックスに関するサルトルやメルロ=ポンティあるいはボーヴォワールなどの分析ではなく、ネーゲルやソロモンなどの分析である。現象学が、さまざまな事柄をわれわれに現われるがままの姿に引き戻して記述し分析する哲学的方法として一般的に定義されるとしても、ネーゲルなどでは現象学の捉え方がきわめて素朴であり曖昧であって、そこにサルトルからの影響が認められるとはいえ、フランスの現象学者たちとネーゲルなどとの間にはかなり隔たりがある。ここでの検討の対象がネーゲルなどのいう「現象学」に限られたものであることを了承されたい。
また、ここでいう「概念分析」(conceptual analysis)とは、セックスに関する基本概念を明確化し満足のいく定義を与えようとするものであり、そのためソーブルなどは、行為を「性的」なものにするための必要十分条件を求めようとしている。たとえば彼はこう述べている。「分析的な問いは、性的欲望(sexual desire)、性的行為(sexual activity)、性的快楽(sexual pleasure)など、セックスという分野の中核的概念を定義することに関わる。こうした分析の目的は、それぞれの概念を(循環論法を避けるために)互いに別個に定義できるか、あるいは、それらの概念がそれらのうちのただ一つによって定義できるかを論証することである」[Soble 2008b:3]。ただ、ソーブルやゴールドマンなどを除けば、セックスに関して「概念分析」を方法論的厳密性をもって行なっている哲学者は、私の知るかぎりではきわめて数少ない。
しかし、英米の哲学における現象学的記述と概念分析の双方にそれぞれ問題が含まれているとしても、英米におけるセックスについての哲学的議論の、その出発点のありかたのなかから、相異なるこうした二つの方法論的動向を互いに照らし合わせながら浮き彫りにしたい、というのが私の狙いである。
1.
ネーゲルが「性的倒錯」のなかで例に挙げている話を、議論の糸口としよう。カクテル・ラウンジではじめて出会った一組の男女、ロメオとジュリエットが、ふとしたきっかけで視線を絡み合わせながら、互いに性的興奮(sexual arousal)を掻き立てられていくという話である。その話を、ソーブルによる巧みな要約を参考にしながら、一般化したかたちで整理してみたい。
(1)XがたまたまYの姿を見て、性的に興奮しながらYを感じるとしよう。(2)そして、YもまたXを感じ、性的に興奮するとしよう。このとき、互いに見られていることに気づかなければ、二人の興奮は「孤独」なものである。しかし、(3)YがXを感じて興奮していることにXが気づき、それを感じることでさらに興奮し、そしてまた、(4)Yも、XがYを感じて興奮していることを感じることでさらに興奮するならば、新たな展開が「相互的」にはじまることになろう。(5)その後、XがYを感じて興奮していることを、Yが感じてさらに興奮していることを、Xが感じることでさらにいっそう興奮する、という再帰的なかたちをとって、ネーゲルのいう「レベルが次第に高まっていく相互認知」(the proliferation of levels of mutual awareness)ないし「重層的な相互人格的認知」(multi-level interpersonal awareness)が螺旋状に進行していくことになる。彼によれば、肉体的接触およびセックスは、こうした視線の交錯の自然な延長にほかならない[Nagel 2008:36f.〔七三−七五〕; Soble 2008a:83; 2008b:81]。
ネーゲルは、性的欲望とは「他者についての感情である」と語るとともに、それは「相手を興奮させたいという欲望を相手に認知させることによって、その相手を興奮させたいという欲望である」とも述べているが[Nagel 2008:38〔七七〕]、彼が性的関係の基本図式と考えるのは、前の段落で要約したようなものである。彼にとって重要なのは、性的興奮が「孤独」なものにすぎない(1)や(2)ではなく、「相互的」な展開がはじまる(3)以下である。しかしこの図式は、彼自身もそう述べているように、サルトルのいう「二重の相互的受肉」(double incarnation réciproque)のヴァリエーションにほかならない。サルトルは、たとえば「愛撫」についてこう語っている。「私は他者を誘い込んで、他者自身にとっても私にとっても、オマエは肉体なのだと実感させるために、自分を肉体とするのであって、私の愛撫は、私の肉体が他者を他者自身にとって肉体として生まれさせるかぎりにおいて、私の肉体を私にとって生まれさせるのである」[Sartre 1948:460〔三七六〕]。われわれの身体(corps)が肉体(chair)になるとは、身体がわれわれが「もつ」ものとしての道具性を失って、われわれで「ある」事実性へと変貌することである。サルトルによれば、性的関係とは、互いの意識をその身体のなかへと鳥黐にかかるように埋没させ、そのことによって互いの意識を「所有」しようとする企てであるが、そのためにも自己自身の意識を身体のなかへ埋没させねばならないような、そうした企てなのである。ネーゲルもまた、性的関係において知覚されるのは「その身体に自己自身あるいは他者が従属ないし没入するという現象である」と述べ、この従属ないし没入を示すものとして勃起など身体の不随意的反応を挙げているが[Nagel 2008:38〔七七〕]、ロメオとジュリエットをベッドへと誘うその後の成り行きについては彼は言葉を濁し、視線の交錯についてしか語っていないとしても、二人が互いに性的興奮を増幅しあうその姿は、まさにサルトルのいう「二重の相互的受肉」そのものであろう。
しかし、ここでいう「受肉」という言葉を誤解してはならない。サルトルとネーゲルの双方に共通するのは、性的欲望を「生理的」なものと見做す考えの否定だからである。たとえばサルトルは、「われわれは一人の女を欲望するのであって、われわれの満足のみを欲望するのではない」と語っている[Sartre 1948:453〔三六三〕]。彼によれば、幼児や去勢者や老人にも性的欲望があることからも知られるように、性的欲望とは生理的な「緊張」の「解消」──たとえば勃起の処理としての射精──を目指すようなものではなく、むしろ「対他存在」としてのわれわれのありかたの根本構造をなすような、われわれを超越する他者への欲望なのである[3]。他方ネーゲルにとっても、性的欲望は生理的な「欲求」(appetite)ではない。彼によれば、それを証拠立てるのは「レベルが次第に高まっていく相互認知」という性的興奮の重層的なプロセスそのものである。つまり、「生理学的」には説明できない相互人格的なプロセスのこのありかたこそ、「性的相互行為の基本的な心理学的内容」として、現象学的記述を求めるものなのである[4]。
ただし、ここで付け加えておきたいのは、性的欲望が「二重の相互的受肉」を目指すものだとしても、サルトルによれば、それはつねに挫折する運命にあるということである。抱きあい愛撫しあう二人の欲望の昂ぶりの果てにおとづれる「快楽」とは、彼によれば「欲望の死」にほかならない。というのも、セックスのエクスタシーのなかでは、愛撫する快楽は愛撫される快楽に転化し、われわれの意識はもっぱら自己の受肉へと向かって、他者の受肉を忘却してしまうことになり、相互的受肉の企てが破綻してしまうからである。逆にまた、性的欲望が他者を「所有」しようとする欲望であるとしても、まさにそのことによって相互的受肉の企ては破綻する。他者の意識が憑依したこの肉体を所有しようとして、われわれがそれを抱き寄せ、掴まえ、そのなかに入り込もうとするとき、われわれの身体は肉体であることを止めて他者を所有するためのただの道具となり、同時に、他者の身体もただの対象に成り下がってしまうのである。──乱暴な言い方が許されるなら、互いが同時に主体でありつつ客体であることが可能となるはずであった「二重の相互的受肉」の企ては、一方がもっぱら主体となり他方がもっぱら客体となることで終わりを迎えざるをえないということである。サルトルが、性的関係の末路はサディズムかマゾヒズムに行き着くしかないと語ったのも、そのためであろう。彼にとって「成功」した性的関係などありはしないのである[Sartre 1948:466-469〔三八八−三九三〕]。
このようにきわめてペシミスティックなサルトルに比べて、ネーゲルはいささかオプティミスティックである。彼は、サルトルの立場では性的関係に関して「成功/不成功」、「完全/不完全」という区別をする余地はないと述べながらも、自らの立場としては、「重層的な相互人格的認知」は現に達成しうるのであり、それゆえ、「相互性」というこの基準を満たす「完全」な性的関係とそれから逸脱した「不完全」な性的関係を区別できることにもなると語っている。そして、彼によれば、そうした不完全な性的関係こそ「性的倒錯」(sexual perversion)にほかならない[Nagel 2008:36〔七二−七三〕]。彼は、倒錯のケースとして、ペドフィリア、窃視症、露出狂、サディズム、マゾヒズムなどを列挙しているが、同性愛は、「現象学的根拠」からしてもそうした相互性を妨げるものはないとして、それらから除外されている。ただし、彼のいう「完全性」が規範概念だとしても、そこに倫理的評価が含まれていないことは指摘しておかねばならないだろう。
もっとも、そこに倫理的評価が含まれていないとしても、彼のいう「完全性」が規範概念であることは否定できない。だとすれば、そうした規範性の根拠とはいったい何なのだろうか。──この問いに対するネーゲルの答は、重層的な相互人格的認知が生じるのは心理的に自然なことだ、というものである。つまり、彼が性的関係の完全性の根拠としてもちだすのは、その「自然性」なのである。ただ仮にそうだとしても、何が心理的に「自然」で、何が「不自然」であるかを見定めるのはきわめて困難なことではなかろうか。ネーゲルは、性的倒錯とは個々の不自然な行為のことではなく、「不自然な性的嗜好」(unnatural sexual inclination)のことであると語り、「倒錯という概念は、歪みを与える影響によって正常な性的展開がわきに逸れてしまったことを含意している」と述べて、幼児期の環境要因などの「因果的影響」によってこそ不自然な性的倒錯が生じると主張する。しかし、彼自身、戸惑いながら自問しているように、因果的影響のうち、あるものを性的展開を妨げるものと見做し、あるものを性的展開を促すものと見做すことがどうしてできるのだろうか。このことについてのネーゲルの答はいささか歯切れの悪いものである。彼によれば、豊乳や金髪への嗜好など、ひとによって異なる不確定な性的潜在性に影響を与えてそれを実現させるものを、より自然だとかより不自然だとか呼ぶことはできないが、相互人格的認知とは人間一般の性的展開にとって確定的な潜在性(definite potential)を示すものであり、それが妨げられる場合には、それを不自然あるいは倒錯的と呼ぶことができるというのである。──ネーゲルのこうした議論に見出されるのは、循環論法的な「論点先取の虚偽」(petitio principii)以外の何ものでもないだろう[Nagel:2008:32; 39-40〔六四−六五、七九−八〇〕] [5]。
ところで、ネーゲルにとって性的欲望とはいったい何なのだろうか。あらためてこう尋ねてみると、彼がその問いに明確に答えていないことに気づく。フロイトがいうように、性的欲望がその目標(Ziel)と対象(Objekt)によって定義されるとすれば、さしあたりネーゲルにとって性的欲望の対象とは「他者」であり、その目標とは「重層的な相互人格的認知」だということになろう。しかし、この答では、その欲望を「性的」なものにするものが何なのかがまったく明らかではない。というのも、彼自身も認めているように、「重層的な相互人格的認知」は、性的か非性的かを問わず、われわれの相互行為にありがちな一般的図式であり、怒りを互いに昂ぶらせていく「攻撃的な振る舞い」といった例でも観察されるものだからである[Nagel 2008:38〔七六〕]。──ここで問題を厄介なものにするのは、一方で彼が『存在と無』の性的欲望についての記述を引き合いに出しながら、他方ではサルトルの存在論とそこから導き出される帰結の受け入れを拒んでいることにある。ただし、少なくともネーゲルが「相互的受肉」というサルトルの考えを受け入れている以上、相互的受肉が互いの意識をその身体のなかへ埋没させ、そのことによって互いの意識を「所有」しようとする企てであることを、彼が認めていることだけはたしかだろう。だとすれば、彼にとっても、性的欲望の目標はあくまでも他者の「所有」でなければならないことになる。たとえば彼もまた、相互人格的認知が高まっていく段階ごとに「身体による人格の支配は強化され、セックス・パートナーは、挿入し挿入されるという肉体的接触を通してより所有可能な対象となっていく」と語り、「欲望は一体化と所有をその目標とする」とも述べているのである[Nagel 2008:39〔七八〕]。
このことを考慮に入れるなら、ネーゲルにとって、相互人格的認知のなかで昂ぶっていく興奮が、その後におとづれる「性的快楽」を予感させるものだとしても、「快楽とは欲望の死である」というサルトルの言葉を引き合いに出すまでもなく、快楽は相互的受肉とそのことによる他者の所有を挫折させかねないものである以上、それは性的欲望の目標とはなりえないはずである。にもかかわらず、彼はこの論文の末尾でこう語るのである。「セックスとして最高点をマークするようなセックスが、或る種の倒錯よりも喜びが少ないということもありうるだろう。そして、喜びがきわめて重要だとすれば、合理的な優先順位を決定する際に、それは性的完全性の考慮を上回るかもしれない」[Nagel 2008:42〔八四〕]。──彼は何を語っているのだろうか。この言葉は、事実上「快楽」が、性的欲望の目標となりうることを彼が暗に認めていることを示している。だとすれば、相互人格的認知とその延長上に達成される他者の「所有」という性的関係のありかたは、「快楽」を求める性的関係のありかたによって相対化されることになるのではなかろうか。
ネーゲルが、サルトルを受け継ぎつつ、意識と自己意識をもつという人間のありかたから、われわれが性的相互行為において互いを主体としても客体としても認知するという事態を、現象学的記述によって際立たせたかったことは十分理解できる。しかし、さまざまな性的関係があるにもかかわらず、彼がそうした相互人格的認知が生じるような性的関係を「完全性」あるいは「自然性」という概念のもとに規範化しようとして、そこに非−現象学的な「因果的影響」という概念を導入したために、彼の議論は混乱を招いてしまったのではなかろうか。ここで浮かび上がってくるのは、われわれにとって現われるがままの事実を事実として記述する「現象学的記述」が規範化をいったい果たしうるのかという疑問であろう。
2.
次に、ソロモンの議論に目を転じたい。というのも、彼はセックスの「コミュニケーション・モデル」を提唱しているのだが、その先駆者としてサルトルとネーゲルの名を挙げてもいるからである。
ソロモンは、性的行為が純粋に「生理的」な快楽を求めるものであるなら、マスターベーションよりも誰かとするセックスの方がはるかに満足のいくものであるのはなぜなのか、なぜひとは手っ取り早くできるマスターベーションではなく、わざわざ厄介な苦労までして誰かとセックスをすることを選ぶのか、と問い掛ける。性的行為の快楽が「痒みを掻く」ことで得られるような生理的な緊張の解消にすぎないならば、マスターベーションをするほうがよほど理に叶っているはずだからである。「生理的」なものとしてのオーガスムがセックスの終りに来るとしても、「終り」を「目的」と勘違いしてはいけない、とも彼は述べている[Solomon 1974:343; 1975:276]。彼にとって、セックスへの欲望とは単なる「欲求」、「動物的本能」ではないのである[Solomon 1975:285]。
このように考えるソロモンが主張するのは、性的行為とはそもそも他者たちとコミュニケーションを行なう手段であり、一種のボディ・ランゲージだということである。彼によれば、われわれは性的行為を行ないながら、身振りや接触や動作によって、優しさや信頼、怒りや憤り、所有欲、優越感や依存心、支配欲や忍従心といったさまざまな感情や態度を互いに伝達しあうのである[6]。そうした相互人格的な感情は、音声言語よりもセックスによってより自然に、より直接的に表現される──いや、セックスこそそうした相互人格的な感情を表現する最上の手段だとさえ彼は語っている[Solomon 1974:343f.; 1975:279][7]。ちなみに、ソロモンによれば、このコミュニケーション・モデルこそ、ネーゲルがロメオとジュリエットという見知らぬ二人の出会いを例に挙げたのはなぜなのかを理解させるものである。というのも、セックスにおいて同じメッセージを呪文のように何度も繰り返すだけの長年連れ添った夫婦よりも、はじめて出会った二人のほうが互いに伝えるべきメッセージがはるかに多いからである[Solomon 1974:344]。
性的行為が「生理的」な快楽を求めるものであるという考えを斥けるソロモンではあるが、彼は性的行為の快楽をまったく否定するわけではない。ただし、彼によれば、性的行為が喜びをもたらすのは、その「音声体系」としての身振りによるというよりは、むしろそれが伝える「意味」によるのである。マクルーハンのように「メディアはメッセージである」と考えて、「メディア」と「メッセージ」を取り違えてはならない、と彼は言う。なぜなら、彼によれば、ひとが喜ぶのは、メディウムとしての細やかな愛撫ではなくそれが伝えるメッセージであり、痛みを伴うワギナやアヌスへのインサートでさえ受け入れられることがあるのもそれゆえなのである。こうした言葉から読み取られるのは、彼にとって性的行為の快楽とはあくまでも「心理的」なものだということであろう[Solomon 1975:281]。
ところで、ソロモンにとって「倒錯」とはいったい何だろうか。彼は、ペドフィリアや獣姦、フェティシズムなどを例に挙げながら、それは「コミュニケーションの破綻」にほかならないと語り、むしろそれを「性的誤解」あるいは「性的不一致」と呼ぶべきかもしれないとも述べている[Solomon 1975:282f.]。しかし、プリモラッツも指摘しているように、コミュニケーションの破綻は、性的行為だけではなくそれ以外のコミュニケーションにおいても頻繁に起こることであり、それらをすべて「倒錯」と呼ぶならば、この概念はほとんど意味をなさなくなるのではなかろうか[Primoratz 1999:54]。ここで少し触れておきたいのは、ひとはなぜマスターベーションよりも誰かとのセックスを選ぶのかと語っていたソロモンが、マスターベーションをどう考えたのかについてである。彼によれば、それはいわば自分に語りかけるモノローグにすぎず、性的倒錯ではないとしても性的逸脱であり、言いたいことを言うことができない、あるいは、それを言うことを拒む性的行為の自己否定なのである[Solomon 1975:283]。
こうしたソロモンの議論はさまざまな問題点を含んでいると思われるが、それを明らかにするためにも、ここで、ネーゲルとソロモンの議論をともに批判するジャニス・ムルトンの議論に耳を傾けたい。
ムルトンがこの二人を批判するもっとも大きな理由は、恋の戯れ(flirtation)や誘惑(seduction)が性的行動一般の適切なモデルになりうる、と彼らが見做していることにある。彼女によれば、はじめて出会った二人ならいざ知らず、ほとんどの性的行動はそうした恋の戯れや誘惑を含んでおらず、それらは互いに馴染みあったセックス・パートナー同士の性的行動を特徴づけるものではないのである[Moulton 1976:538]。
彼女によれば、ネーゲルの議論は、「性的予感」(sexual anticipation)の展開として解釈できるものである。恋の戯れや誘惑は、その後に起こることを予感しつつ、心を昂ぶらせながら進行していくものかもしれないが、そうした「性的予感」は「性的満足」と区別しなければならないと彼女は言う。予感の昂ぶりもなしにはじめられた性的行為が満足のいくものであることもあれば、昂ぶった予感にもかかわらず不満足に終わる性的行為もあるからである。彼女によれば、性的予感がより強く感じられるのは、その後の展開がどうなるか分からない不確かさを伴ったはじめての性的出会いなのかもしれないが、馴染んだパートナーとの間に培われた信頼や経験のほうが性的満足をより高めてくれることが多いのである。にもかかわらず、ネーゲルは、肉体的相互行為についての基準からの逸脱ではなく、それに先行する性的興奮の不完全さによって「倒錯」を定義するために、親密で満足のいく性的行動であっても、それが相互に興奮を昂ぶらせていくことなしにはじめられるならば、彼の解釈では、それは「倒錯」に分類されることになるのではないか、とムルトンは疑問を呈している[Moulton 1976:538-540]。
ムルトンのソロモンへの批判はもっと辛辣である。彼女が彼に対して示した疑問や反証例を列挙してみよう。──ソロモンは、さまざまな感情や態度が性的なボディ・ランゲージによって伝達されると述べるが、ただの呻き声や泣き声でさえそれらを同じように伝達できるのではないか。また、大人と子供の間であれば、「優しさ」や「信頼」をうまく表現する手段は「性的」なものでありえないだろう。セックス・パートナー同士であっても、共同当座預金を作ることのほうが性的行為よりも「信頼」を表すよりよい表現かもしれないし、さらに、サド・マゾヒィスティックなセックスによって表現されるとソロモンがいう「支配欲」にしても、相手を殴ったり相手から金品を奪ったりする非−性的行為のほうが、相手の協力なしに行なえるのだから、それをはるかに直接的に表現できるのではないか。ソロモンは、長年連れ添った夫婦よりもはじめて出会った二人のほうが性的行為によって互いに伝えるべきメッセージが多いと語っているが、見知らぬ二人が出会ったときに交わす会話が浅薄でステレオタイプな「スモール・トーク」であるのと同じように、はじめての肉体的相互行為は性的な「スモール・トーク」にすぎないことが多いのではないか、等々[Moulton 1976:543f.]。
ムルトンは、このように述べたあと、ソロモンが行なった性的行動と言語とのアナロジーをより適切なかたちで見直すためには、性的行動が感情や態度についての情報を伝達する機能を果たすだけではなく、むしろそれが、感情や態度を喚び起こす「交話的機能」(phatic function)を果たす点に着目しなければならないと語る。彼女によれば、性的行動において問題なのは、「伝達」される感情ではなくむしろ「産出」される感情であり、性的行動によって相手との間に共有された親密感が作り出されることなのである。そして、二人の関係をより強固なものにするそうした親密感は、行きずりの二人よりも馴染みあった二人の間でのほうがより濃密に作り出され、性的快楽もより大きなものとなる、と彼女は述べている[Moulton 1976:544f.]。
3.
ムルトンのネーゲルとソロモンへの批判を要約すれば、ネーゲルに対しては、彼の議論は恋の戯れや誘惑に制限されるべきだということであり、またソロモンに対しては、コミュニケーション・モデルを「交話的機能」によって修正すべきだということである。このことから考えると、彼女のこの両者への批判は彼らの議論を必ずしも全面的に否定するものではない。そこで、ネーゲルとソロモンが提起した問題についてさらに考察を進めるために、彼らとは真っ向から対立する議論を展開しているゴールドマンの「プレイン・セックス」の議論を取り上げてみたい。
ゴールドマンの議論がネーゲルやソロモンの議論と対立するというのは、ネーゲルがきわめて「現象学的」であるのに対し、彼が「概念分析的」であることも指摘すべきことだが、それよりも指摘しておきたいのは、彼が「目的−手段分析」(means-end analysis)と名づける分析のありかたを批判の対象としていることである。彼のいう「目的−手段分析」とは、性的行為に、生殖、愛の表現、コミュニケーション、相互人格的認知など、セックスそのもの(plain sex)にとって外的な目的をネーゲルやソロモンのように設定し、性的行為をそれらの「目的」のための「手段」として分析しようとするもののことであり、またそれらは、そうした目的から逸脱する性的行為を「倒錯」と見做そうとするものでもある[Goldman 1977:268f.]。彼によれば、こうした分析が問題を孕んでいるのは、性的行為がそれにとって外的な目的に結びつけられることによって、「性的行為」や「性的欲望」という概念そのものが歪められてしまうからである。
ゴールドマンが、性的欲望とは「他者の身体に触れたいという欲望であり、その接触が生み出す快楽を求める欲望である」と定義し、さらに、性的行為とは「行為者がそうした欲望を満たそうとする行為である」と定義したのも、そうした「目的−手段分析」に陥ることなしにセックスそのものを問題としようとしてのことである。彼によれば、性的欲望のこの定義は、欲望を「性的」と規定するための必要かつ十分な条件なのである[8]。彼はここで、この定義では包括するものが多すぎるのではないか、あるいは、少なすぎるのではないか、という反論もありうるかもしれないと述べる。──包括するものが多すぎるというのは、この定義では、たとえばサッカーなどのスポーツでの身体的接触を「性的」と解釈できるかもしれないからである。しかし、彼によれば、これらのスポーツでの欲望の「目標」は、勝利することや練習することであって、身体的接触そのものではありえない。では、乳児を抱きしめたいという親の欲望はどうか。彼によれば、この場合でも、親はまさに愛情を示そうとしているだけであって、身体的接触を純粋に求めているわけではないのである。この点について彼は、「身体的接触を求める欲望がなければ、あるいは、接触が他の理由のために求められるときには、その行為は根本的には〈性的〉とは規定されない」とも述べている[9]。──他方、この定義では包括するものが少なすぎるという反論としてゴールドマンが挙げるのは、われわれの欲望を掻き立てるのは、誰かの「身体」ではなくその誰かの「個性」だということもありうるのではないか、というものである。それを論駁するために彼がもちだすのは、われわれにとって性的魅力をもつのは、その誰かの「思考内容」ではなく、その振る舞い方に「身体化」されたその誰かの個性ではないか、だから、われわれはその誰かと会話を続けたいだけではなく、それ以上の身体的接触をも欲しているのではないか、ということである[Goldman 1977:268-270]。
ゴールドマンの考えはおよそ以上で概括したようなものだが、そのように考える彼は、ネーゲルとソロモンをどのように批判したのだろうか。
ソロモンについては、ゴールドマンはこう指摘する。──言語使用において、言語記号そのものは重要性をもたず、それはそれによって伝達されるものの媒体として機能するだけである。セックスを身振り言語に還元し、それをコミュニケーションの手段と考えるならば、それ自体として快楽をもたらす肉体的行為としての性的行為は、伝達のためのただの「媒体」となり、その本性が見過ごされてしまうことになる。ソロモンは、言語ではなく音楽とのアナロジーを用いるべきだったのかもしれない。音楽は、「音素」そのものの経験が快楽をもたらすような、コミュニケーションの審美的形式と考えられうるし、誰かに話しかけられることに比べて音楽を聴くことの方が性的経験により近いだろう。しかし、音楽がそれ自体として審美的であり快楽をもたらすものであるかぎり、それを特定の感情を伝達するコミュニケーションの手段としてのみ考えるのでは、それは審美的経験を卑しめることになる。それと同じように、セックスをコミュニケーションの手段と考えることもまた、性的経験を貶めることになるのである[Goldman 1977:276]。──ゴールドマンは、これ以外にもムルトンに似た批判を行なっているが、以上に要約したことが、おそらくソロモンへの批判の要点ではないかと思われる。
ネーゲルに対してのゴールドマンの批判は、特にあまりに主知主義的なそのスタンスへ向けられたものである。ゴールドマンは、欲望の相互的認知がセックスの昂ぶりを促すこともあるかもしれないが、相手の貪欲な欲望を認知することでかえって気が削がれ、身体への没入が妨げられることもしばしばありうると語り、セックスが他者との関係のひとつのありかただとしても、それは「知的」というよりはまずもって「肉体的」なものではないか、と異議を唱えている。彼によれば、ネーゲルのモデルは、セックスそのものよりも、ムルトンも指摘したように、よりソフィスティケートされた誘惑の場面に当て嵌められるべきであるし、またそのモデルに従うなら、それが生み出す快楽に溺れて「相互人格的認知」が忘却されるセックスそのものは、「知的」な前戯と比べても、基準を下回る期待外れの結末にすぎなくなってしまうことになる。だから、ネーゲルにとってセックスそのものは、その前戯とは違って、コミュニケーションの手段でさえなく、それ以下のものなのである[Goldman 1977:277f.]。
ところで、ネーゲルやソロモンの考えを「目的−手段分析」に含めるゴールドマンであるが、性的行為を、生殖、愛の表現、コミュニケーション、相互人格的認知といった目的のための手段と見做すこうした考えは、彼によれば、プラトン主義的・キリスト教的道徳の伝統に合致するものである。彼はこう語っている。「この伝統によれば、人間の動物的ないし純粋に肉体的な要素は不道徳の源泉であり、私が定義した意味でのセックスそのものはこの肉体的要素の表現であって、それ自体として非難されるべきものである。これまで検討してきた〔目的−手段〕分析はすべて、こうした性的欲望から距離をとり、それを身体的なものを超えて概念的に拡張しようと試みているように思われる。……性的欲望はわれわれが肉体的存在であり、実際、動物であることを教える。このことこそ、伝統的なプラトン的道徳がこれほど徹底的に性的欲望を非難してきた理由である」[Goldman 1977:279]。──ゴールドマンのこの言葉こそ、ネーゲルとソロモンにとって、もっとも根本的な批判になるかと思われる[10]。
ネーゲルやソロモンとゴールドマンのこの対立は、性的欲望を動物的な「欲求」と見做すか否か、それを「生理的」と見做すか「心理的」と見做すか、という対立であると考えることもできよう。ゴールドマンにとって性的欲望は「生理的欲求」であり、人間の「動物的本性」である。だとすれば、ここで思い出されるのは、性的行為が純粋に「生理的」な快楽を求めるものであるなら、なぜひとはマスターベーションよりも誰かとするセックスを選ぶのか、というソロモンの問いであろう。性的欲望を生理的欲求と見做すのであれば、その欲求を満たすにはマスターベーションで十分なはずである。たとえばソーブルも、「性的なものが、ゴールドマンの説明にあるように、皮膚を擦り合わせてそこから生み出される快感を求めることであるとすれば、他者の皮膚の存在は取り除いてもよいことになると思われる」と語っている[Soble
1980b:17f.]。ところがゴールドマンは、すでに引用したように、性的欲望をあくまでも「他者の身体に触れたいという欲望」だと考えるのであり、さらにマスターベーションについては、「窃視をすることやポルノグラフィの映像を見ることは性的行為と規定されるが、それは、それらが現実になされることの想像的代理であるかぎりにおいてである。……パートナーなしのマスターベーションについても、同じことが当て嵌まる」と述べるのである[Goldman
1977:270]。つまり彼は、現実になされる誰かとのセックスの想像的代理でなければ、マスターベーションを「性的行為」としては認めないのである。また彼は、「性的欲望はその因果的状況から切り離すことができる特定の感覚、肉体的接触以外の仕方で生じうる感覚を求める欲望ではない」とも語っているが[Goldman
1977:268]、この言葉からも明らかなように、彼の考えでは、誰かとのセックスを想像もせずオーガスムの快感のみを求めてなされるマスターベーションは、セックスと同じ感覚がそこから得られるとしても、そもそも性的行為ではないことになってしまう[11]。ソーブルは、こうした彼の主張を、マスターベーションを道徳的に非難するプラトン主義的・キリスト教的道徳の伝統に回帰したものだと述べ、「ゴールドマンは、自分自身が仕掛けた爆竹によって自爆する。彼の分析は、セックスについての拡張主義〔=「目的−手段分析」〕的な他の説明に対して彼が向けたのとまったく同じ批判に屈服することになる」と語っているが[Soble
1980b:16]、まさにここにこそ、ゴールドマンの主張のもっとも大きな問題点があると思われる。
4.
それでは、ゴールドマンをこのように批判するソーブル自身の考えはどうなのか。彼は、論文「マスターベーション」(一九八〇年)などのなかで、ゴールドマンの「プレイン・セックス」の考えだと、マスターベーションが「性的」でないことになるのであれば、「よりプレインなセックス」の考えを提示しなければならないと述べている。彼によれば、セックスの分析に関して、行為が誰かとの間でなされることをその行為が「性的」であるための必要条件と見做す「二元的枠組み」、および、それを必要条件とは認めない「一元的枠組み」という二つのモデルがありうるが、彼自身はよりプレインな「一元的枠組み」の立場に立つと言うのである[Soble 1980a:236f.]。そして彼は、「性的欲望」についてきわめて単純な定義を示そうとする。それは──ゴールドマンへの彼の批判のなかですでに語られていたものだが──性的欲望とは「皮膚を擦り合わせること」(the rubbing of skin against skin)によって「一定の快感(certain pleasurable sensations)を求める欲望である」というものである[Soble 1980a:240; 1980b:7; 18] 。たしかに、このモデルはゴールドマンのものに比べてもはるかにプレインであり、このモデルであれば、ソーブルが言うように、自体愛的なマスターベーションも真の性的行為と認められることになるし、それどころか、二人で行なう性器挿入を含んだ性的行為でさえ、「皮膚を擦り合わせて、そこから生まれる快感を求める」ものとして、一種の相互的マスターベーションだと考えることもできる。彼は、セックスとマスターベーションの地位を逆転させようとするのである[Soble 1980a:237]。
しかし、ソーブル自身認めているように、このモデルの孕む厄介な問題は、われわれが感じる快感のなかで、「性的」と見做しうる感覚を特定することがきわめて困難になるということにある。しかも、それを特定できなければ、性的欲望を他の欲望と区別することさえできなくなってしまうのである[Soble 1980b:18]。にもかかわらず彼は、或る快感を「性的」にするものは何かという論点は未解決のままにせざるをえない、と語るに留まっている[12]。しかも、それに続けて彼は、このモデルでは、なぜひとが他者を性的欲望の対象とするようになるのかを説明する必要があるが、そのためには、たとえばフロイト学派の理論に依拠しながら、諸個人の快感を求める欲望が、その個人の置かれた環境の社会的条件のなかでどのように精神的−性的(psychosexual)に発達してきたかを問題にしなければならない、とも述べているのである[Soble 1980a:240][13]。──しかし、こうした彼の主張は、哲学の「概念分析」が行為を「性的」にするものは何かという問いに最終的には答えることができず、その問いを精神医学などに委ねなければならない、ということを物語っているのではなかろうか。彼は、たとえば「マスターベーションふたたび」(二〇〇八年)においても、「性的欲望のすべての目標、対象、標的、さらには、それを満足させる手段は、研究を必要とする偶然的事実であり」、しかもそれを研究するのは哲学ではなく「経験的諸学科」であると述べているのである[Soble 2008a:95]。
ところで、ソーブルが一元的モデルを唱えたのは、性的欲望を「生理的欲求」と見做すゴールドマンの主張をさらに徹底させるためであったはずである。しかし、性的欲望のありかたを「偶然的事実」であるとする彼のこの主張をよく考えてみると、それもきわめて曖昧なものだということに気づかざるをえない。というのも、この主張のなかには、性的欲望を純粋に人間の「動物的」ないし「生理的」なものと見做し、性的欲望とは何かということの答を生理学や医学に委ねるべきだというよりも、むしろ性的欲望は「心理的」であると同時に「歴史的、社会的」なものと見做さなければならないという考えが暗に含まれているからである。そのことは、先に引用した「諸個人の快感を求める欲望が、その個人の置かれた環境の社会的条件のなかでどのように精神的−性的に発達してきたかを問題にせねばならない」という言葉からも読み取ることができよう。彼は、性的欲望がどのようなかたちで、どのような対象へ向けて発現されるかは、社会的条件に左右されると言っているのである。
ソーブルは、『セックスと愛の哲学』のなかで、ミシェル・フーコーやデイヴィッド・ハルプリンなどの「社会構築主義」に言及しつつ、「ある文化で性的とされる接触や動作が、他の文化ではそうでないこともあるのだから……もしかすると、性的と見做されているすべての行為には、共通の性質も本質もないかもしれず、概念分析の企ては挫折するかもしれない」と語り、さらにこう述べている。「身体的動作は、それに意味を賦与する文化の内部に存在することによって、性的あるいは他の意味を獲得するのであり、その結果、性的なものについての社会的定義は可変的なものでしかありえないことになる。人間の性の歴史とは、まずもってセックスについての慣習と〈言説〉の歴史である──ミシェル・フーコーならそう述べただろう」[Soble 2008b:57][14]。──もっとも、このように語ったからといって、ソーブルは社会構築主義の立場に「転向」したわけではない。彼は、「性現象は文化と社会によって定義され、構築されたものと考えなければならない。いかなるものでもエロティックになることができる」というフェミニスト、ナンシー・ハートソックの言葉を引用しながら、「仮にそうであるとしても、すべての性現象に共通する性質、たとえ本当に小さな中核であろうとも、本質的なものがあるのだ。それは、変化することなく、文化ごとに異なることのない性的興奮と性的快楽に関する主観的経験である」と主張するのである[Soble 2008b:61; Harksock 1983:156] 。彼は「性的興奮と性的快楽に関する主観的経験」をあらゆる性現象に共通の特徴と見做す。しかし、歴史的、文化的に異なるさまざまな性現象の根底に、すべての人間に共通する「人間本性」として、歴史や文化に汚染されないような生まの「性的興奮と性的快楽に関する主観的経験」を見出すことができるとはとても思われない。むしろそうした主観的経験は、そのつどすでに歴史的、文化的な再−構造化を被ってしまっているのではなかろうか。
さらに言うならば、ソーブルの「概念分析」には、方法論的な難点も含まれている。彼は、すでに述べたように、行為を「性的」にするための必要十分条件を求めようとするのだが、彼はその際、性的行為とは性的身体部位との接触を含む行為だとする性器説、生殖が可能となる行為だとする生殖説、性的快楽を生み出す行為だとする性的快楽説、あるいは、ゴールドマンの性的欲望説などの諸説を、常識的に「性的行為」と見做されている反証例を挙げて批判するというかたちで議論を進める[Soble 1996:117-142; 2008b:47-67]。つまり彼は、性的行為に関して普遍的に妥当するものを求めながら、歴史的、文化的に異なっているはずの「常識」を暗黙の前提として議論を進めてしまうのである。しかし、彼自身の言葉にもあるように、「ある文化で性的とされる接触や動作が、他の文化ではそうでないこともある」のである。このことからしても、ソーブルの「概念分析」は社会構築主義による批判に耐えられるものだとは思われない[15]。
それでは、社会構築主義の主張をまえにして、ネーゲルの「現象学的記述」はどう抗弁することができるのだろうか。話が元に戻ることになるが、最後にこのことに触れておきたい。ここで私の関心を引くのは、ソーブルがネーゲルを批判しつつ語っていた、次のような言葉である。「ネーゲルの二元的モデルでは、〈心理学的に完全な形態〉は論理的に一次的なものであり、人間本性の一部であると見做されており、したがって、二人で行なう通常のタイプの性的行為は説明を必要としない、あるいは、説明を受けつけないとされるのである」[Soble 2008a:95]。ソーブルは、ネーゲルなどの二元的モデルでは、なぜひとは誰かとするセックスを選ぶのか、という性的選好の「原因論」(etiology)が問われることもなく、そうした性的行為のありかたを「人間本性」から導き出されるものとして前提していることを疑問視しようとする。というのも、一元的モデルを主張する彼にとって、前提とすることができるのは、あくまでも快感を求める欲望の存在のみであり、われわれが行なう性的行為はすべて説明を必要とするものだからである。ソーブルのこの指摘は──彼のいう「快感を求める欲望」がつねに歴史的、文化的な再−構造化を被り、生まのかたちで発現することはないという条件を付け加えるならば、であるが──きわめて妥当なものではなかろうか。
だとすれば、ネーゲルが抱えている問題は、やはり彼のいう「自然性」にあることになろう。彼は、われわれの性的嗜好が、幼児期の環境要因などの「因果的影響」によって形成されることを認め、「幼児期の経験が性的対象の選択を決定するように思われる」とさえ語っておきながら[Nagel 2008:39〔七九〕]、その根拠を示すこともなく、相互人格的認知が人間一般の性的展開にとって確定的な潜在性を示すものであると述べて、相互人格的認知の「自然性」を主張するのである。しかし、彼が、「人間本性」の普遍性を信じ込み、「心理的なもの」の「社会的なもの」に対する優位をどれほど主張しようとも[Nagel 2008:32f.〔六五−六六〕]、幼児期の経験が性的対象の選択を決定するのだとすれば、そこに社会的要因が介入してくることはいわば不可避ではなかろうか。彼の主張もまた、社会構築主義による批判に耐えられるものではないと思われる。
ネーゲルなどの「現象学的分析」とソーブルなどの「概念分析」のいずれもが、社会構築主義による批判に耐えられないというこうした結論は、いささか期待外れの結末かもしれない。しかし、私が行なってきたことは、英米におけるセックスについての哲学的議論がはじまった、その出発点の議論がどう展開されたかを辿り直すということにすぎなかった。ただ、そこでの二つの立場、現状学的記述と概念分析の双方がもつ有効性と限界性について十分語りえたかということについてはいささか疑問も残るが、ひとまずここで筆を擱くこととしたい。
付記
本稿は、2009年3月21日、京都女子大学で開催された京都生命倫理研究会において行なった口頭発表に大幅に加筆したものである。
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著者情報
魚住洋一(京都市立芸術大学美術学部)
* CAP Vol.1 (2009)
pp.13-30. 受理日 2009.5.8 採用日 2009.7.29 採用カテゴリー:研究論文(原著論文)掲載日 2009.11.10
[1] こうした議論を紹介した数少ないものの一つが、[江口 2006]である。
[2] 通常、売買春は金銭を代償として「性的行為」を行なうことと考えられているし、レイプはフェミニズムなどによって「性暴力」として語られることが多い。またポルノグラフィにしても、「性的行為」を描写することで「性的興奮」を掻き立てるテクストや映像であるとしばしば言われる。しかし、ソーブルも指摘しているように、「性的」とはどのようなことかをあらかじめ理解していなければ、売買春やレイプやポルノグラフィとは何なのかについて明確な定義を得ることもできないはずである[Soble 2008b:47-49]。私見ではあるが、日本におけるフェミニズムなどの議論は、性についてのこうした問いを問い質すこともなく、それを自明の前提として行なわれてきたように思われる。私がここで行為を「性的」にするものは何かを問いたいのは、まさにそのためである。
[3] サルトルの「対他存在」の議論については、[魚住 1994]を参照されたい。
[4] ソーブルもまた、この点に触れながら、ネーゲルのユニークさは、性的欲望のありかたを「本能的」ではない人間固有のものとして解釈しているところにあると述べ、そのことを示すのが、性的意図の相互認知が性的経験の不可欠な構成要素と見做されていることだと指摘している[Soble 1980b:8]。
[5] ちなみに、ネーゲルが「因果的影響」について語ったこの箇所は、一九六九年の初版にはなく、一九七九年の改稿版で加筆されたものであるが、この改稿版でネーゲルは、同性愛と異性愛の双方について、「異性愛へ向かう自然な傾向を妨げたり置き換えたりするような歪みを与える影響によって、同性愛が生じるかどうか」、「異性愛が男女の歪められない性的気質の自然な表出であるかどうか」という疑いを差し挟んでいる。彼自身は、こうした疑いに対して、歪みを与える影響は同性愛や異性愛においては働いていないとの見解のように思われるが、しかし、こうした疑いが暗に示しているのは、「因果的影響」という概念の導入によって、ネーゲルの倒錯の議論が再検討を迫られることになったということではなかろうか[Nagel 2008:41〔八二〕]。
[6] ソロモンが、性的行為こそ相互人格的な感情を表現する最上の手段であると言いながら、それが表現する感情のなかに「愛」を含めていないことについて、彼は、「愛」は性的行為によってはうまく表現できず、また性的行為においては、不幸なことに、愛の表現よりも、憎しみ、怒り、嫉妬、不安、支配欲、競争心などといった他の感情の表現の方がはるかに強力でより頻繁に見られるからだ、といささか皮肉まじりに語っている[Solomon 1974:344; 1975:276]。
[7] たとえばソロモンは、「二人の間で体の身振りや接触や動作によって互いの感情を伝達しようとする場合、ほとんどすべての行為がまったく性的なものになりうる」と語っているが[Solomon 1975:283]、プリモラッツは、彼の主張を「ボディ・ランゲージの汎セックス主義」と呼んで揶揄しながら、肩を叩き合って共感を表しあう異性愛者の男たちなど、「性的」ではありえない身体的行為の例を挙げている[Primoratz 1999:39]。
[8] 性的欲望についてのゴールドマンのこの定義は、性器接触を必要条件とするものではない。彼によれば、キスや愛撫などの身体的接触を求める行為は、性的興奮を示す性器の徴候がなくても、それだけで「性的」と規定しうるのである[Goldman 1977:269]。
[9] したがって、ソーブルが主張するように、ゴールドマンの考えに従うなら、金銭のために売春婦が行なうフェラチオは、客にとっては性的行為であっても、彼女にとっては性的行為ではなく、たとえば「家賃を払い食料を手に入れたい」という欲望を満たす行為にすぎないということになる[Soble 1996:70; 2008b:56]。──ところで、ソーブルがこのように述べるのは、売春婦の行なうフェラチオも性的行為ではないか、それを性的行為であると認めないゴールドマンの議論はおかしい、と彼が考えているからである。しかし、レイプという事例を考えるなら、レイプは加害者にとっては性的行為であっても、被害者にとっては身体的暴行であり暴力行為である。レイプにおいて加害者も被害者も性的行為を行なっていると見做すのは、強盗事件において強盗を「能動的な犯罪者」とし被害者を「受動的な犯罪者」として、両者をともに犯罪の共犯者と考えるようなものである。売買春に関しても事態は同じであって、客にとってフェラチオが性的意味をもつとしても、売春婦にとっては性的意味をもたないと考えることは、ソーブルの考えとは違って、まったく正当であると思われる。
話が変わるが、ここで注意しておきたいのは、或る行為が事後的にもたらす「性的快楽」ではなく、むしろそうした性的快楽を事前的に求める「性的欲望」こそ、ゴールドマンにとって行為を「性的」なものにする当のものだ、ということである。だから、性的欲望に駆られて行なわれた身体的接触によって、求めていた性的快楽を享受できなかったとしても、その行為が「性的」でなくなるわけではない。
[10] ソーブルもまた、「プレイン・セックス」と「目的−手段分析」というゴールドマンの区別にほぼ対応する「還元主義」(reductionism)と「拡張主義」(expansionism)という区別を行なっている。ソーブルによれば、「還元主義」とは、性的行為は快楽を感じながら「皮膚を擦り合わせること」であり、行為が「性的」なものであるためにはそれ以上のものを付け加える必要はない、との主張であり、それに対して「拡張主義」とは、「性的」なものを肉体的接触とその快楽のみによって説明しようとするなら何かが見失われるのであり、性的行為は「皮膚を擦り合わせる」以上の何ものかである、との主張である。そして、彼もまた、拡張主義は快楽を得るためだけに性的行為を行なうことを倫理的な悪だと考えているのではないか、だから、それには肉体的快楽以上の何かが含まれていると主張し、そのことによって性的行為を正当化しようとするのではないか、とも述べている[Soble 1980b:7; 12]。
[11] 何も想像せずに行なうマスターベーションが「性的行為」でないというのは、ソーブルがゴールドマンの議論の論理的帰結として導き出したことであって、ゴールドマン自身は、そうしたマスターベーションは「規範からの逸脱」だと述べるに留まっている。
ところでソーブルは、マスターベーションを性的行為と認めることができるのは、それがセックスの「想像的代理」であるかぎりのことだというゴールドマンの主張に対しても、批判を加えている。──彼によれば、或る行為が別の行為の「代理」であるからといって、それらの行為が同種の行為となるわけではない。ハンバーガーの代りにソイバーガーを食べることは、まったく同じ味がするとしても、ハンバーガーを食べることではないのである。したがってソーブルによれば、ゴールドマンは、誰かとのセックスを想像して行なうものも含めて、すべてのマスターベーションは性的行為ではないと言うべきだったのである[Soble 1997:70; 2008a:82]。
[12] ちなみに、ソーブルは、性的感覚を特定するものとして三つの定義がありうるが、それらの定義はどれも満足のいくものではない、とも述べている。
(1)性的感覚とは性器と密接に関連した性的器官との接触から生み出される感覚である、という定義。──しかし、この定義については、唇や乳首や膝の裏に触れて快感を感じることがあるが、これらが性器と密接に関連しているとはたして言えるのか、という疑問が残る。
(2)接触する身体部位がどこであっても、そこから生み出される快感が性的感覚である、というフロイト的定義。──この定義はあまりに広すぎる。というのも、これでは、暑い日に冷水を飲むとき口で感じる快感とオーラル・セックスをするとき感じる快感を区別できないからである。
(3)性的感覚とは、他者の身体との接触によって生み出される感覚である、というゴールドマンの定義。──しかし、性的感覚の多くは他者の身体との接触なしに生み出すことができるし、また、そうした感覚をもたずに他者の身体と接触することもできる[Soble 1980a:243]。
これらの定義がいずれも不満足なものであるとしても、ソーブルがそれらの定義に対して行なった批判も──ここではその理由を述べる余裕はないが──目の粗い、不十分なものだと言えよう。
[13] フロイトの『性欲論三篇』などによれば、おしゃぶり行為など、幼児は最初期においては外的対象に訴えずに、自己自身の身体に訴えることによって、その欲動の充足を果たすのであり、彼はそうした幼児の性的欲動のありかたを「自体愛」(Autoerotismus)と名づけている。フロイトのこの主張が物語っているのは、主体を一定の対象へと導いていくあらかじめ定められた道はないということにほかならない。たとえばポール・リクールは、このことに触れてこう述べている。「衝動は特定の〈目標〉をもつが、その対象は〈可変的〉である。快感原則の支配を永続的にするのは、欲望のこの本源的な彷徨である。対象との絆は与えられていないのだから、その絆は獲得されねばならない。この問題は、精神分析の学説が〈対象選択〉(Objektwahl)という言葉で言い表したものである」[Ricœur 1965:269〔二九六〕]。ソーブルがセックスとマスターベーションの関係を逆転させるような一元的モデルを唱えた背景には、こうしたフロイトの考えがあったと思われる。
[14] たとえば上野千鶴子も、社会構築主義の立場に立って、「セクシュアリティとは〈無定義概念〉であり」、セクシュアリティは「人々が〈セクシュアリティ〉と呼び、表象するもの、そしてその名のもとで行為するしかた」にほかならないと語っている[上野 1996:6]。
[15] ソーブルの「概念分析」に対しては、たとえばクリストファー・ハミルトンなどが述べているように、「性的行為」と呼ばれる一群の行為には、それぞれ部分的に共通する特徴はあるが、すべての行為に共通の特徴は存在しない、つまり、ウィトゲンシュタインのいう「家族的類似」があるだけではないか、との指摘もある[Hamilton 2008:103]。彼の指摘が正しいとすれば、古典的論理学が考えたような素朴な集合論的関係を想定しながら、セックスやマスターベーション、あるいは、サド・マゾヒズムやフェティシズムなどのすべてに共通の特徴を求めようとするソーブルの企ては、それだけで破綻するかもしれない。