魚住洋一
或る王様が、一人の妃妾を夜毎に寵愛している。或るとき出陣しなければならなくなった彼は、家来に命じてその愛妾の肖像を描かせ、それを携えて戦場に赴く。彼は夜ともなるとその絵姿を抱きしめ、それを接吻で埋め尽くしながら、戦陣の無聊を慰める。ところが、戦役から凱旋した王様は、本物の愛妾を前にして、彼女よりもその似姿のほうがよほど美しく感じられることに気づく。彼は、彼女には目も呉れなくなり、その画像とともに部屋に閉じ籠もって、ますます長々とそれに見惚れるようになる。ところが、或るとき城館が火事になり、その画像は焼け失せ灰になってしまう。王様は、ふたたび愛妾のもとへ通うようになり、彼女を腕に抱いてつくづくと眺める。しかし、王様が彼女に求めるのは、もはやあるがままの彼女の微笑でも、あるがままの彼女の姿態でもない。彼が彼女を求めるのは、彼女が焼失した絵姿に生き写しであるからにすぎないのだ。──この逸話は、サルトルが『聖ジュネ』のなかで語っていたものである(SG, 398)(2)。彼はこの逸話に続けてこう述べている。「焼け失せた肖像のモデルである愛妾を見つめる王様は、何を見ているのだろうか。存在なのか、それとも仮象(apparence)なのか。生身の女のほうが描かれた画像の真実なのか、それとも、その画像のほうが生身の女の真実なのか。王様は彼女を抱擁し愛撫するが、王様の仕草はことごとく非現実化され、王様自身が一つのイマージュになってしまう。つまり、王様は、肖像というまやかしの世界のなかで画中の愛妾を口説いている画中の王様になってしまうのだ」(SG, 400)。
この王様は、生身の愛妾とその画像の地位を逆転させ、いわば生身の愛妾をその画像の画像に貶めてしまう。彼にとっては想像上の女のほうが現実の女よりも現実的なのであり、そのため、想像上の女と同衾する彼の存在そのものも想像界のなかに飲み込まれ、想像上のものと化することになる。なぜなら、非現実の女と交わるためには、自分の身をも非現実化しなければならないからだ。つまり、ジュネの言葉を借りれば、この王様は「自ら想像上の存在となるまでに想像力の深みに落ち込む」羽目に陥ったのである(SG, 381)。こんな王様の話をすれば、仮象が現実に取って代わってしまうことなど実際にはあるものかと、嘲笑されるだけかもしれない。しかし、よく考えてみるなら、これを馬鹿げた話として済ますわけにはいかなくなるはずである。はたしてわれわれは、この王様とは違って、仮象を現実と摩り替えたりすることはないのだろうか。われわれにとっての現実とは、仮象と見紛がうことがないほどの揺るぎなさをもっているのだろうか。むしろわれわれにしたところで、現実と仮象、知覚と想像を気づかぬうちに取り違えているのではないのか。たとえばオナニーに耽る少年のことを考えてみればいい。この少年も、実は、愛妾の肖像に欲情する王様とどこも違いはしないのである。というのも、彼は、架空の女の艶めかしい姿態を想像のうちで思い浮かべ、この贋物の女に本物の欲情を感じ、この想像上の女に向かって現実に勃起し、現実に射精してしまうからである。彼は、まさしく想像上の状況のなかで現実のオーガスムを経験しているのであり、この少年にとっては、さしあたり想像上のものでしかない現実の性交は、本物のオーガスムを伴う想像上の性交ほど現実的なものではないのである。サルトルも、自慰行為に言及してこう述べている。「架空のオペラ(l'Opera fabuleux)はオナニスムに帰着する。……オナニスムとは、世界とオナニスト自身の双方を非現実化する行為である。……一種の逆転作用によって、明らかに無であるものが、現実の世界のなかで現実の出来事を引き起こす。勃起、射精、毛布にこびりついた汚斑などは想像上のものをその原因としている。オナニストは、同じ一つの運動によって、世界を手中に収めてそれを解消してしまうと同時に、非現実の秩序をこの宇宙に当て嵌めるのである」(SG, 409ff.)。ところで、オナニストがオナニーによって現実界と想像界の地位を逆転させるのはたしかだとしても、まだこれだけでは、オナニストは戦陣で愛妾の肖像を抱きしめる王様の次元にようやく辿り着いたにすぎない。むしろ本当の問題は、このオナニストが実際に女と同衾する羽目になったときはじめて生じるのかもしれない。たとえばR・D・レインは、『自己と他者』のなかでサルトルのこの言葉に触れつつ、こう語っている。「オナニーのオーガスムに馴れてしまうと、非−想像的な関係のなかで自分の体をどう取り扱っていいのか分からなくなる。オナニストは、他者が実際に前に居るときに不釣り合いに〈興奮〉しはしないかと、気詰まりでぎこちなく、自意識過剰のおどおどした気分になる。彼は、自分の体が、想像界の〈なか〉で反応するのと同じように反応しはじめるのを恐れるのだ。……男が女を見るのは、一人きりの自分の体との性交の際に想像したような彼女についての経験で色づけされた眼差しによってである。……こうして、或る若い男はオフィスの便所でたった今ファックしてきたばかりの若い女と廊下でばったり出会って狼狽し、結局辞職せざるをえない顛末となる」(SO, 41f. cf.DS, 124)。セックスの真似事としてオナニーに耽っていた少年が実際に女とセックスをするとき、彼はそのセックスをオナニーの真似事として演じなければならなくなる。つまり、オナニーが想像上のセックスであるなら、セックスもまた想像上のオナニーとなり、すべてはオナニストの夢想のなかに掻き消えてしまうのだ。オナニーとセックスのこの堂々巡りを考えたとき、われわれはあの王様の逸話を揶揄したりはできなくなるはずである。というのも、レインが語っているように、オナニストが女を抱くとき、このオナニストは生身の女を架空の女と摩り替え、あの王様そのものになってしまうのだから。

さて、オナニーとセックスのこの堂々巡りは、われわれにとっての現実がけっして揺るぎないものではなく、くるくると現実と仮象が入れ代わり、ついには現実が仮象の仮象と化してしまうサルトルのいわゆる〈回転装置〉(tournique)のなかに投げ入れられていることを物語っている。しかし、現実と仮象が入れ代わるこの堂々巡りのなかにわれわれが巻き込まれているとすれば、われわれもまた、画中の存在と化してしまったあの王様のように、結局、自らを想像上の存在とせざるをえないのではないのか。このことについて、もう一つ例を挙げておきたい。それは、A・フロイトとレインが引き合いに出している或る三歳の坊やの話である。「この三歳児の子供部屋には、四つの椅子があった。第一<の椅子に坐るときには、彼は夜中にアマゾン川を遡っていく探検家になる。第二の椅子では、唸り声をあげて乳母を怖がらせるライオンになる。第三の椅子では、船を操って海を渡る船長になる。だが、第四の子供用の高い椅子に坐ると、彼は単に自分自身であることを、つまり、ただの坊やであることを装おう(pretend)とするのである」(SO, 31)。この坊やは、自分でないふりをしていたのを止めるのではなく、ふりをしていないふりをすることであるがままの自分に戻ろうとするのだ。自分であるふりをしようとするこの坊やの例の説明として、レインは次のような図を描いている。Aはあるがままの自分である。そのあるがままの自分が、自分でないふりをする(A→B)。ところが、自分でないふりをしていた自分があるがままの自分に戻ろうとするとき、この坊やは、時計回りにAに戻る(B→A)のではなく、時計と逆回りに戻ろうとする(B→A1 ) のである。このとき、A1 とAは限りなく近いためにほとんど見分けがつかないが、それらの間には踏み越えられない一線がある。というのも、ふりをしていないふりをするときには、あるがままのものであったはずのものがすべて見せかけになってしまい、現実がことごとく仮象の仮象になりかわってしまうからである。しかし、レインも指摘していたように、いったんこの堂々巡りに入り込んでしまえば、そこから抜け出すことなどできなくなってしまう。つまり、この堂々巡りのなかでは、自分でないふりをする、ふりをしていないふりをする、ふりをしているふりをしていないふりをする(I pretend I am not pretending to be pretending)…… といった風に、二重の見せかけは、三重の見せかけとなり四重の見せかけとなって、この悪循環は際限もなく続いていくからである。
しかし、この坊やの例を一笑で片づけるまえに、自分がこの坊やと同じ三歳だった頃を思い出してほしい。それでもなお、この坊やを笑い飛ばせるのであれば、その人は三歳の頃の自分を忘れてしまったのだ。はたしてわれわれは、幼かった頃、あるがままの自分であることと自分であるふりをすることの違いなど本当に分かっていたのだろうか。私たちが幼かった頃に打ち興じたママゴトや一人芝居のことを考えてみるといい。というのも、ママゴトや一人芝居のなかでは、私たちもまた、あの三歳の坊やと同じように振る舞っていたはずだからである。たとえばワロンは、或る女の子についてこう語っている。「その女の子は、二歳半の頃、夜に床に就いてから自分とお話をする癖があり、彼女は色々な人物の登場をさまざまな口調で喋り分けていたが、自分をそれらの人物のなかにどう位置づければいいのかまだ分からなかった。……彼女はそれらの登場人物の立場を自分の立場に従属させることができず、自分の立場をただの傍観者の立場のようにして、それらの人物すべてを心のなかに解消してしまうことができなかったのである」(3)。この女の子は、現実のものであるはずの〈私〉を想像上のものであるはずの登場人物たちに対して優位に立たせることができず、その〈私〉は次々に現れる登場人物たちに翻弄され、結局そのなかに飲み込まれてしまうことになる。つまり、お話のなかの登場人物たちを想像上のものに解消してしまうことができないこの女の子は、逆に、その〈私〉を想像上の登場人物の一人に解消してしまうことになるのだ。いわばこの女の子は、〈人格〉(personne)と〈登場人物〉(personnage)の見分けがつけられないのである。しかし、三歳以前といえば、まだ自分を〈私〉という一人称で呼べず、自分を〈○○チャン〉といった三人称で呼んでいるような時期であり、他者からはっきりと区別される確然とした〈私〉というものがまだ成り立っておらず、自己にせよ他者にせよ、はっきりした内実をもっていないために、状況に応じてその内実も互いに摩り替わってしまうようなワロンのいわゆる〈癒合的社会性〉(sociabilite syncretique)の時期なのである。ワロンが挙げている別の例を引き合いに出せば、或る男の子は、下に妹が生まれたとき、突然自分を姉と同一視し、自分を姉の名で呼ぶように頼んだというし、さらにその妹も、学校に入ると、自分を姉の名で呼ぶようになったという。これらの子供たちの場合、今まで年下であった彼らは、年上になったことですっかり「人が違って」しまい、今まで年上であった姉そのものになりきってしまったのである(4)。子供たちが自分以外の人物になりきってしまうというこの〈変身〉(mutation)がどれほど奇妙に思われるとしても、この年頃の子供たちにとって、現実と想像の区別以前に、自己と他者の確然とした区別さえ成り立っていないことを考えてみれば、こうしたことが起こってもけっして不思議ではない。だとすれば、彼らが一人芝居やママゴトのなかでさまざまな人物を演じるとき、実際の〈私〉とそれ以外の見せかけの人物との区別を彼らに求めたところで、それは望むべくもないことである。子供たちが玩具の電話機を手にして「モシモシ、お母さん」「モシモシ、○○チャン」などとお喋りをするとき、あるいは、「アタシはお母さん」「じゃあ、アタシは子供」などと言ってママゴト遊びをはじめるとき、この子供たちにとって、母親の役を〈演じる〉ことと三歳の子供で〈ある〉ことの間に決定的な違いがあるのだろうか。彼らにとっては、自分以外の人物を〈演じる〉こととあるがままの自分を〈演じる〉こと、あるいは、自分以外の人物で〈ある〉こととあるがままの自分で〈ある〉ことのの間の落差などまったくない。そこにあるのは、ワロンのいわゆる〈交替やりとり遊び〉(jeu d'alternance)あるいは〈一人二役的会話〉のなかでそのつどさまざまな役柄になりきることによって得られるような、目眩めく〈変身〉の魔術だけなのである。
ところで、自分で〈ある〉ことが自分を〈演じる〉ことに摩り替えられるこうした子供たちの魔術的世界のなかでは、現実が現実として成り立つ基盤が根こそぎにされているのではあるまいか。というのも、私が紛れもなくここに居るということこそ、そこに現実があるということの最後の拠り所であり、いわば〈私〉が居なくなれば、周りの〈現実〉もことごとく消え失せてしまうはずだからである。つまり、〈私〉と〈私〉でないものでさえ回転装置のなかでくるくると入れ代わることになるなら、子供たちにとって現実と仮象を見分ける手立てなど何もないことになってしまう。だとすれば、子供たちは仮象のうえに仮象を積み上げ、ついには現実を見失ってしまうことになりかねない。しかし、皮肉めいた言い方をすれば、子供たちのこうした危うい動きに歯止めを掛けるのは、いわばまっとうな大人たちのしたたかさである。たとえば、レインが引き合いに出していたあの三歳の坊やのことをあらためて考えてみるといい。見せかけのうえに見せかけを重ねていく堂々巡りに陥っていたこの坊やを救い出してくれるのは、いわば両親や周りの大人たちなのである。彼があるがままの自分であるはずの三歳の坊やのふりをうまく〈演じる〉ことができたとき、大人たちは「よくできたわねぇ」「よしよし、いい子だねぇ」などとこの坊やを褒めそやす。その褒め言葉に味を占めたこの坊やは、大人たちにもっと褒められたいあまり、彼らの言葉に唆されて、彼らが三歳の子供はこうあるべきだと考えるまさにその姿を演じつづける。そして、この坊やは、三歳の坊やのふりをするのがますます巧みになり、ついには自分が演技していることさえ忘れてしまう結果となる。つまり、彼はただの坊やになってしまうのである。ところで、このことによって、この坊やが見せかけの上に見せかけを重ねるあの際限のない堂々巡りから救い出されることだけはたしかである。だからといって、彼があるがままの自分を取り戻すという大団円で終わるわけではない。むしろ逆に、ただの坊やになりきることで、変身の戯れのなかにあったこの坊やは、三歳の坊やのあるべき姿に呪縛されることになり、彼はあるがままの自分を見失い、レインのいわゆる〈ニセ自己〉(false-self)が彼の〈自己〉を喰らい尽くす結果となるのだ。そして、素顔を失ったこの坊やは、年を経るにつれて、そのつどあるがままの自分であるはずの真面目な学生や勤勉な勤め人、実直な夫や厳格な父親といった役柄を、それとは知らぬままにいつまでも演じつづけていく顛末となるのである。しかし、はたしてこの坊やには、そうするより他に道が残されていただろうか。
子供たちの遊戯のなかに大人たちの世界の縮図が読み取れるとすれば、自分であるふりをするこの三歳の坊やや一人芝居をするあの二歳半の女の子は、まさにわれわれ大人のありかたを隠喩的に物語っているはずである。だとすれば、大人たちもまた、この坊やと同じように自分であるふりをしながら日々を過ごしており、彼らの〈人格〉も、あの女の子と同じように、結局は彼らが演じる劇中のさまざまな〈登場人物〉にすぎないということになる。こう言い切ってしまうのがいささか早計だとしても、われわれ大人にしたところで、その日々の営みのなかにさまざまな見せかけや演技を入り交じらせていることは否定できないだろう。しかし、それは、われわれにとってのこの現実そのものが、そもそもの成り立ちからして、そうした見せかけや演技を締め出すのではなく、逆にそれらを取り込んでいるからではなかろうか。このことをてっとり早く理解させるためには、レインも引き合いに出していたブーバーの『対話的原理』のなかの例を挙げるのが近道であろう(SO, 91)。──ペーターとパウルという名の二人が話をしているとしよう。そこには、パウルにそう見せかけたいペーターとペーターにそう見せかけたいパウルが居る。また、パウルに実際にそう見えるペーターとペーターに実際にそう見えるパウルも居るし、さらには、自分自身にとってそう見えるペーターとパウルさえ居る。これで終わりかと思うと、それに加えて、ペーターとパウルの肉体さえいわばモノとしてここにあるのだ。してみると、ここでは二つの肉体と六つの仮象とが入り交じっていることになり、いったい何が何やら分からなくなってしまうのである。このペーターとパウルを二人の恋人に置き換えても構わない。夜の帳のなかで密かに恋を囁くこの二人の周りには、どれほど多くの仮象が飛び交っていることだろうか。──二人きりの状況を考えただけでもこんな始末である。だとすれば、無数の人々が入り組んで互いに係わり合う実際の状況の場合にどうなるかは、火を見るよりも明らかである。われわれが互いに向かい合うとき、われわれはいわば互いに鏡をかざし合っているのであって、そこでは鏡のなかに鏡が映り、夥しい虚像が生み出されることになるのである。われわれが一人きりでモノを見ているときには、現実と仮象を見分けるにはたかだか頬を抓ってみるだけでよかった。ところが、われわれがヒトと係わり合うときには、頬を抓るだけでは済まないようなさまざまな仮象が入り込んでくることになるのだ。
しかし、このように現実のなかに夥しい仮象が入り込み、現実と仮象を見分けることなどできないのが事実だとしても、われわれは通常、仮象ではないたしかな現実がそこにあると考え、それに疑問を抱くことさえほとんどない。いったいそれはなぜなのだろうか。ここで思い出されるのは、レインが語っていた〈社会的空想体系〉(social phantasy system)という概念である。彼によれば、われわれは通常この〈社会的空想体系〉のなかに没入しきっていながら、それを現実だと勘違いしており、しかも、皮肉なことに、そうしたありかたこそ〈正常〉なありかただと見做されているのである(SO, 23)。彼は、こう語っている。「あらゆる集団は空想によって動いていく。……一部の家族やその他のグループに見られるような緊密に結びついた集団は、空想という様態によってしか見出されないような偽−現実経験を見出したいという欲求によって、互いに結び合わされている。このことは、家族というものが空想の様態としてではなく〈現実〉として経験されていることを意味する。……ニセの社会的現実感は、とりわけ、空想とは認識されない空想を伴うものである。ポールが家族の空想体系から醒めはじめるとき、彼は家族によって狂人か悪人の類だと見做されるだけである。なぜなら、彼らにとっては彼らの空想が現実であり、彼らの空想でないものは現実ではないからである。……通常の事態とは、何らかの連鎖的集団(nexus)の空想体系のなかで、安住しうる境地(a tenable position)にあるということである。このことは通常〈アイデンティティ〉ないし〈パーソナリティ〉をもっていると呼ばれる。われわれはけっしてそのなかにあることを自覚せず、そこから逃れようなどとは夢にも思わない。そして、そこから逃れようとする者たちをたわけものや悪人や狂人として、見逃したり罰したり治療したりするのである」(SO, 24f.)。このレインの言葉に注釈など要るまい。彼の言葉に従えば、いわばこの現実とは、行進していく王様が丸裸であるのに、皆が口々に見えもしない王様の豪華な衣装を褒め称え、「王様は裸だ」と叫ぶ少年を気違い扱いしかねないようなあの『裸の王様』のブラック・ユーモア的な世界とどこも違いはしないのである。つまり、この現実とは、仮象であるにもかかわらず、われわれが皆それを〈現実〉と呼んでいるために現実とされているにすぎないのであって、しかも、それを〈仮象〉だと言おうものなら、途端に狂人と見做されかねないような、そうしたいかがわしさとおぞましさを共に内に孕んだものなのである。レインは、「〈現実〉を知覚すること! 人々は自分たちが知覚したものが非現実だという感覚をいつから失ってしまったのだろうか」と嘆いていたが(SO, 29f.)、しかし、この嘆きの声に耳を傾ける者などはたして居るのだろうか。
ところで、レインが語っているように、この現実がでっち上げの偽−現実にすぎないとしても、そうした偽−現実を支えているのがわれわれ自身が演じるさまざまな〈演技〉(jeu) にほかならないことは、すでに述べたことからも明らかである。この問題をあらためて考えてみるために、ここでレインからサルトルへと再び目を転じたいと思う。ここで取り上げたいのは、『存在と無』のなかのカフェのボーイの例である(EN, 98ff.)。彼は、テーブルの間を巧みに摩り抜け、客に慇懃にお辞儀をして細心に注文を聞き、まるで軽業師のように颯爽とお盆を運んでくる。あまりにもきびきびした几帳面なこのボーイの動きは、われわれの目にはまるで機械仕掛けの人形のように映るが、それは彼がボーイであることを演じ、ボーイであることに戯れているからにほかならない。しかし、ボーイであるはずの彼がなぜボーイであることを演じなければならないのか。この疑問への答は簡単である。──それは、そこに他者が居るからである。いわば他者たちとの係わりなしには生きていけないわれわれは、他者たちに自らの存在を売り渡しているのであり、そうしたわれわれの〈存在〉とは、他者の目に映るわれわれの姿以外にはないのである。だからこそ、ボーイであるわれわれは、他者に自分がいかにもボーイらしく見えるように装わなければならないのだ。だとすれば、われわれに求められるのは、見せかけのボーイ、架空のボーイをそこに現出せしめるための〈演技〉以外ではない。つまり、われわれがボーイであるとしても、われわれはボーイとしての典型的な仕草を機械的に行ない、類同代理物(analogon; representant analogique)としてのこの仕草を通じて想像上のボーイであることを目指すことができるだけなのである。ところで、サルトルは、「存在するためになし遂げられる行為は、もはや行為(acte)ではなく仕草(geste)である」とも語っていたが(SG, 87f.)、この言葉が物語っているのは、われわれが自らの存在を手に入れるために支払う代償の大きさである。われわれはそのために、われわれにとって現実であったはずのものをすべて想像上のものとせざるをえないのである。ボーイがボーイで〈ある〉ために〈なす〉さまざまな振る舞いは、ことどこく〈仕草〉にすぎず、もはや〈行為〉ではない。彼は、ボーイであるための見せかけの虚しいダンスを踊りつづけているにすぎないのである。しかし、言うまでもなく、カフェのボーイだけでなく、八百屋や料理人や教師や役人にしたところで事情はまったく同じである。われわれは皆、それぞれの役柄に似つかわしいダンスを踊り、皆が歩調を合わせて踊るこの輪舞のなかで、それぞれにその架空の存在をかろうじて保っているだけなのである。
さて問題は、ボーイがボーイであるためにはボーイであることを演じなければならず、そのために現実であったはずのものがすべて仮象に摩り替えられてしまうというわれわれの逆説めいたありかたに集約されよう。この逆説は、われわれを自分であるふりをする例の三歳の坊やと同じ袋小路に追い込んでしまう。というのも、われわれは自分であるために自分であるふりをしつづけなければならなくなるからである。もはや、われわれのあるがままの姿などどこにもない。あるのはただ、自らが演じる見せかけの姿だけであり、しかもこの見せかけの姿なしにはわれわれは存在することさえできないのである。しかし、だからこそ、われわれは自らの演じる見せかけの姿を自らのあるがままの姿だと思い込み、また、そうした見せかけの姿から成り立っているレインのいわゆる〈社会的空想体系〉のなかにますます溺れ込んでいくのではなかろうか。ところで、サルトルも、レインと同じように、見せかけの姿をあるがままの姿だと思い込むわれわれのこうしたありかたを嘆きつつ、それに〈くそ真面目な精神〉(l'esprit de serieux)といういささか揶揄めいた言葉を当てがっていた。サルトルによれば、このくそ真面目な精神とはいわば〈遊戯〉(jeu) の精神の対極をなすものであって、遊戯の精神が現実的なものを仮象の戯れに転じようとする態度だとすれば、このくそ真面目な精神とは逆にこの現実性のなかに溺れ込んでしまおうとする態度のことである(EN, 669)。してみると、それは、自らの演技を演技とも思わず、仮面を素顔と勘違いして、仮象を現実と見做してしまう態度にほかならない。しかし、それがわれわれの通常の態度だとしても、われわれがそうした態度を取らざるをえないのは、おそらく、われわれが仮象の背後に広がる〈無〉に耐えきれず〈存在〉の安らぎのなかに逃げ場を求めるからであり、それを剥ぎ取れば裡にはのっぺらぼうの空虚さが広がるだけの仮面を被っていることからわれわれが目を背けようとするからであろう。だからこそ、われわれは、互いに演技し合いながらも、皆で辻褄を合わせてそれが演技でないかのように装い合うのであり、そのことによってでっち上げられるまことしやかな偽−現実のなかに、レインのいわゆる〈安住しうる境地〉を何とか求めようとするのである。
ところで、演技を演技でないかのように装うこうしたわれわれのありかたには、われわれを自己疎外に追い込んでしまうような一つの陥穽が潜んでいる。それは、役者の宿命的なありかたにきわめてよく似たものであり、それについて語るには、役者のありかたについて考えてみたほうがかえって分かりやすいかもしれない。サルトルはいくつかの箇所で役者のありかたについて語っていたが(IM, 367f.;IF, 662ff.)、彼によれば、役者とは「演技のうちに囚えられ、いわば彼が演じる人物の犠牲になる」ことを宿命づけられた存在である。役者がどれほど自分の演技に観客の目を牽きつけようとしても、観客が見るのは現実の彼ではなく、彼が演じる想像上のハムレットでしかない。つまり、観客のまえに姿を現わすのは想像上のハムレットでしかなく、現実の彼の姿はその裡に掻き消えてしまうのである。というのも、役者はその生身の存在を彼が演じるこの想像上の人物のアナロゴンとせざるをえないのであるが、アナロゴンとは「不在性のために犠牲とされる現実の存在」にほかならないからである。この役者がハムレットとして存在するのであって、ハムレットがこの役者として存在するわけではないのだ。してみれば、役者の存在とは、見かけが存在するために自らを犠牲とし、自らを非存在の支えとなす存在でしかないことになる。ところで、自分でないものを演じている役者が自分であるはずのわれわれとどれほど違っているように見えようと、すでに述べたことからすれば、こうした役者のありかたとわれわれのありかたの間に違いなどほとんどない。ボーイであるはずのわれわれもまたボーイであることを演じなければならないのであって、役者が自らをハムレットのアナロゴンとしているのと同じように、われわれもまた自らをボーイのアナロゴンとしているのである。だとすれば、役者がハムレットにすべてを奪われるのと同じように、われわれもボーイや八百屋や料理人や教師や役人といった自らが演じる役柄に密かにすべてを奪われているのではなかろうか。つまり、自分のものであるはずの役者の振る舞いのすべてが見えない糸によってハムレットに操られ、結局ハムレットという架空の存在が役者を飲み込んでしまうという舞台上の出来事と同じことが、この現実のなかでも起こっているはずなのである。サルトルは或る箇所で、たとえば「われわれ医者は……」といった呪文めいた言葉を唱えながら、われわれが〈医者〉といった自らの演じるべき役柄を偶像化しその操り人形となっている、と語っていたが(SG,100)、われわれは、自らの演じるべき役柄に溺れ込むあまり、まるで憑依霊に取り憑かれた狐憑きの亡者のように、自分が被っている仮面の虜となってしまっているのではなかろうか。
ここで思い出されるのは、サルトルが『家(うち)の馬鹿息子』のなかで、フローベールの『紋切り型辞典』を引き合いに出しながら語っていた言葉である。「本質的なものは、人々が信じきって演じている喜劇である。集団の振る舞いが個々の人々を呑み込み、彼らを利用して、ナンセンスであるにもかかわらず物質的現実として自らを確立し、その物質的現実のために個々の人々は抹殺されてしまう。今やバレーはそれ自体として措定される。……機械的なものが生きたものの上に嵌め込まれ、一般性が個々の経験のもつ独自性を抹殺し、あらかじめ作られた反応が、その場に応じたプラクシスに取って代わる。こうして、〈ひと〉の非人称的支配(le regne impersonnel du《On》)がやってくる。私は叔父を訪問するが、それはひとは元日に叔父を訪問するものだから、というわけである」(IF, 614f.)。フローベールは、『紋切り型辞典』のなかで、紋切り型の観念に縛られたわれわれの月並みな常套句を一千以上も蒐集し、その愚鈍さを嘲笑している。「医者。つねに〈先生〉だが、男同士で話し合うときには〈へっ、糞ったれの医者の奴〉と言うべし」、「騙される。騙されるより騙すが勝ち」、「溜め息。女のそばで洩らすもの」等々と、そこにはがらくたのようなありとあらゆる陳腐な言い回しがアルファベット順に網羅されている(5)。しかし、それは、フローベールが或る書簡のなかで述べているように、「礼儀をわきまえた慇懃な人物となるために世間で口にしなければならない」言葉なのだ。つまり、サルトルも語っていたように、そうした紋切り型の観念から構成される惰性的な意味作用のなかにこそ、われわれの間での合意の仕草(le geste de l'accord)を可能にしてわれわれを一体化するための地盤が見出されるのであり、そうした陳腐な言葉や月並みな振る舞いを儀式のように機械的に繰り返すことではじめて、人々がそのなかで生きる社会というものが成り立つことになるのだ(IF, 618)。フローベールは、『紋切り型辞典』は読者を「伝統に、秩序に、一般的なしきたりに」再び結びつけるだろうと、皮肉めいた口調で語っていた。しかし、ただそれだけのためにわれわれは、儀式のコルセットのなかにがんじがらめにされ、サルトルが『弁証法的理性批判』のなかで〈実践的惰性態〉(le practico-inerte)という言葉で呼んでいたような、惰性化されいわばモノのようになった振る舞いを続けていく羽目に陥ってしまうのである。このことの代償が、サルトルが語っていたような〈ひと〉の非人称的支配の到来であることは、すでに明らかである。われわれは誰かに会うと、「今日は、いいお天気ですね」などと決まり文句を口にしながら挨拶をする。しかし、誰が挨拶しているのか。挨拶しているのは、誰でもいい誰か、いや、誰でもない誰かであって、もはや〈私〉ではない。われわれは、あの三歳の坊やと同じように、自分であるふりをする演技をし続けた末に、自分を見失って名前もない匿名の存在に成り下がってしまうのである。そして、そうした名前もない者たちが執り行なう儀式めいた営みだけが際限もなく繰り返されていくことになるのだ。
こうしたことを繰り言めかしく書き綴っていくのも、そろそろ終わりにしなければならない。ここでレインの言葉を引用して、その締め括りとしたい。「われわれの〈正常〉な〈適応〉した状態が、恍惚の放棄、われわれの真の可能性への裏切りであることがあまりにも多すぎる。われわれのなかには、ニセの現実に適応するためにニセの自己をあまりにもうまく獲得しているものが多いのである」(DS, 12)(6)。
(1)本稿は、或る意味で、「仮面舞踏会のなかの〈私〉──サルトルと『聖ジュネ』をめぐって」(『情況』、九月号別冊、現象学特集号、情況出版、一九九二)の続編である。『情況』論文を参照いただければ幸いである。
(2)サルトルおよびレインのテクストからの引用については、略号を用い、頁数とともに本文中の括弧内に表示する。
(3) Wallon, H., Les Origines du Caractere chez l'Enfant, 8e edition, Paris, Presses Universitaires de France, pp.276f.
(4) Wallon, H., op.cit., p.281.
(5) Flaubert, G., Bouvard at Pecuchet, Paris, Gallimard, 1979, pp.485-555.
(6)ここでは、われわれの存在の仮象性について、あくまでも存在的(ontique)な次元の問題として考察したにすぎず、存在論的(ontologique)な次元の問題にはあえて踏み込まなかった。この問題については、魚住洋一「毀れものとしての〈私〉──自己意識の政治学のために」(新田義弘編『他者の現象学・2』、北斗出版、一九九二)を参照されたい。