メランコリーとしてのジェンダー
──バトラーとフロイト
Melancholy
Gender :
Yoichi Uozumi 魚住洋一
ジュディス・バトラーは、一九九〇年に公刊された『ジェンダー・トラブル』について、二年後の或るインタビューのなかで、こう語っている。「問題は、私がパフォーマティヴィティの議論のなかに精神分析の考えを十分に取り入れなかったことにあります。……私にできなかったのは、異性装の演劇性を、それに先立つものとしての精神分析の議論に照らし合わせることでした。というのも、精神分析は、無意識の不透明性(opacity)が精神(psyche)の外化に制限を加えると主張しているからです」[Butler 1992:89]。──彼女がこのように語った動機は、ドラァグのパフォーマンスをモデルとして彼女が行なった、ジェンダーがパフォーマティヴに構成されるとする議論が、主体の「選択」による「自由な演技」としてしばしば誤解されたことにあったと思われる。すでに『ジェンダー・トラブル』でも、フロイトの「喪とメランコリー」や『自我とエス』を引き合いに出しながら、失った愛の対象を自らのうちに取り込むことによって自我のジェンダー・アイデンティティが形成されるとする議論が展開されていたのだが、それにもかかわらず、そうした議論がジェンダー・パフォーマティヴィティの議論と噛み合わず、そこに「乖離」が見出される結果となっていたのである[Butler 1999:192]。たとえば彼女は、『ジェンダー・トラブル』一九九九年版「序文」でも、「内的」なものと見做されるジェンダーが「外的」な一連のパフォーマンスによって作り出されるとすれば、「内的」として理解されていたものはすべて取り除かれることになるが、だとすれば「内面性」、「内なる精神」というものは誤ったメタファーなのだろうか、とも問い掛けている[Butler 1999:XV]。
私がここで試みたいのは、『ジェンダー・トラブル』第二部第二章「フロイトおよびジェンダーのメランコリー」や『権力の心的生』などで語られているバトラーのフロイト解釈を、フロイトのテクストと読み比べながら検証することによって、彼女がジェンダー・パフォーマティヴィティの外的な働きを、それに「制限を加える」ものとしての「精神」の内的な働きのなかに位置づけ直そうとしたことの意味を問い質すことである。
1.パフォーマティヴ・ジェンダー
ところで、こうした議論に立ち入るまえに、すでに周知のことではあるが、バトラーのジェンダー・パフォーマティヴィティの議論を、『ジェンダー・トラブル』などのテクストを手掛かりに、まず瞥見しておきたい。
バトラーは、「法のまえ」(before the law)、つまり、法の外部や法以前に存在する主体などなく、むしろ主体は「法」によって産み出される、と語る[Butler 1999:4f.〔二〇−二一〕]。彼女によれば、フェミニズムの主体とされる「女」は、「法」の規整的な働きによって作り上げられたものである。しかし、そのことが成し遂げられるのは、さまざまな言葉、行為、身振りが「法」に即した一定の様式にしたがって繰り返される「パフォーマンス」によってであり、「女」としてのジェンダー・アイデンティティは、そうしたパフォーマンスの効果として生じるものにほかならない。言い換えれば、きわめて「自然的」なものとされるジェンダーとは、ジェンダー規範をいわば沈殿させるパフォーマンスの反復によって作り出されるものだ、ということである。バトラーによれば、「内なる精神」、ジェンダーの内的真実といったものがまずあってそれが外部へと「表現」されるのではなく、むしろこの「内なる精神」は、規範に即したパフォーマンスを身体的に反復するなかで作り出されるものとして、たとえようもなく「外部」にあるものなのである。彼女は、ミシェル・フーコーを引き合いに出しながら、身体のなかにあると考えられる「内なる精神」とはいわばメタファーであり、それは「身体のうえに書き込まれることによって意味を与えられる」と述べている。ここにおいて「内/外」の区別は廃棄され、「内なる精神」のプロセスは、身体の「表面」においてなされる出来事として捉え直されることになるわけである[Butler 1999:172〔二三八−二三九〕; Butler 1990b:278f.]。
このように、ジェンダーが身体の表面に書き込まれた幻想にすぎないとすれば、ジェンダーに本物も偽物もなくなってしまうことになるが、バトラーがジェンダー規範のパフォーマティヴな攪乱(subversion)の可能性を見出すのは、まさにここにおいてである。彼女がそうした攪乱の例として取り上げるのは、異性装である。たとえば彼女は、エスター・ニュートンの次のような言葉を引用している。──「〔ゲイ男性のドラァグは〕二重の転倒を引き起こして、〈外見は錯覚である〉と語る。ドラァグが語るのは、一方では、私の〈外側の〉外見は女だが、私の〈内側の〉本質は男だということだが、同時に、それは逆の転倒をも表している。つまり、それは、私の〈外側の〉外見は男だが、私の〈内側の〉本質は女だとも語っているのである」[Butler 1999:174〔二四一〕]。この言葉を引用しながら、バトラーは、ドラァグや服装転換やレズビアンの男役/女役などジェンダーのパロディ的反復が、「ジェンダーを模倣することによって……ジェンダーそのものが模倣の構造をもつことを明らかにする」と語る[Butler 1999:175〔二四二〕]。つまり、コピーとしてのパロディが、オリジナルとされるジェンダーそのものもまたコピーであること、すべてのジェンダーがパフォーマティヴに作り上げられる──いわば「すべてのジェンダーはドラァグである」──ことを明らかにし、そのことが「男/女」、「異性愛/同性愛」といったカテゴリーの脱構築を引き起こす、ということである。
しかし、こうしたジェンダー・パロディが本当に撹乱的なものなのか、むしろそれは「男/女」、「異性愛/同性愛」といった既存の区別を強化するだけではないか、という疑問は当然生じる[1]。後にバトラー自身もそのことを認め、たとえば映画『トッツィー』でのダスティ・ホフマンの演技などを「きわめて異性愛的なエンターテインメント」の例として挙げているし[Butler 1993:126]、また「『ジェンダー・トラブル』が……提示しているドラァグの議論は、厳密に言えば攪乱の例ではない」とも語っているのである[Butler 1999:XXII]。ただ、この問題にはこれ以上触れないでおきたい。
むしろ私がここで問題にしたいのは、ジェンダーがパフォーマティヴな構築物であるというこうした議論が、ジェンダーが俳優の自由に行なう演技だとか、クローゼットのなかの衣装から選び出した一着を身にまとう振る舞いのように読めてしまう、そのように「誤解」されてしまう、ということである。──もちろん、「法のまえ」に存在する主体などないと見做すバトラーは、『ジェンダー・トラブル』においてもこのことを明確に否定している[2]。たとえば、彼女はこの著作のなかで、「ひとは女に生まれるのではなく、女になるのだ」(On ne naît pas femme, on le devient.)というボーヴォワールの言葉について、「女になる」ことをなしうるようなこの「ひと」とはいったい誰なのか、まだジェンダー化されていない「ひと」などという「主体」があらかじめ存在しているのか、と問い掛けてもいたのである[Butler 1999:141f.〔一九九〕]。
しかし、バトラーは、ジェンダー・パフォーマティヴィティへの「誤解」がその引き金になったのか、その後の『問題=物質なのは身体だ』などでは、その議論を修正していく。羅列的に述べると、『ジェンダー・トラブル』では区別されていなかった「パフォーマンス」と「パフォーマティヴィティ」の区別、言語行為論のデリダ的解釈、および、アルチュセールの「呼びかけ」の議論の援用などである。たとえば『問題=物質なのは身体だ』では、主体を前提する「パフォーマンス」と主体を前提しない「パフォーマティヴィティ」の区別が提起され、「パフォーマティヴィティとは、パフォーマーよりも先に存在し、拘束し、超過する規範の反復(reiteration)であって、その意味で、パフォーマーの〈意志〉や〈選択〉が作り上げるものとしては捉えられない」[Butler 1993:234]と述べられている。しかしこれだけでは、ただ新たな概念装置が抽象的に示されたにすぎない。むしろ、それを実効的なものとするために彼女が取り上げるのは、言語行為論のジャック・デリダによる解釈である。彼女がとりわけ注目するのは、デリダの「引用可能性」(citationalité)ないし「反復可能性」(itérabilité)という概念であり、彼が、開会式や進水式や婚礼を例に挙げながら、それらを執り行うために発せられる行為遂行的発言が、「決まり文句」として「反復可能」なものであり、それがいわば「引用」として認められうるのでなければ、その発言は効力を発揮しないだろう、と語っているくだりである[Derrida 1990:45〔四四−四五〕]。つまり、「あなたを……と宣言する」という牧師や判事の言葉は、それが何度も繰り返された言葉の「引用」であることによって、その「権力」を発揮するのである。このことをバトラーは、産科病棟での医師や看護士の「女の子だ!」という発言にまで敷衍させていく。彼女によれば、この発言は事実確認的なものではなく、その名づけによって彼女を「女の子」としてまさにはじめて「誕生」させる行為遂行的なものなのである。バトラーは、これを「名づけられたものを生産する言説の権力」と呼び、さらに、この名づけは「女の子化」といったことが強制されるその後のプロセスを起動させるものであり、その後この「女の子」は、生きていく資格を得るために、たえずジェンダー規範の強制的な「引用」を促されていくことにもなる、と彼女は述べる[Butler 1993:224-227;231f.]。このようにバトラーは、「女の子」としての名づけだけではなく、その後の「引用」によるジェンダー規範の身体化をも「パフォーマティヴ」に含めて考えるのであり、「言語」以外の身体的な振る舞いにまで議論を拡張することで、オースティンの言語行為論のみならず、そのデリダ的解釈からも微妙なズレを生むことになる[3]。しかし、ジェンダー・パフォーマティヴィティをジェンダー規範の強制的な「引用」と捉え直すことによって、パフォーマティヴィティを主体による「自由な演技」と見做す考えが退けられることになるのも、また明らかであろう[4]。
このことと関連するが、「女の子だ!」という名づけに主体としての「女」の誕生を読み取るバトラーは、「子供を〈それ〉から〈彼〉や〈彼女〉へ変化させる医学の呼びかけ」について語り[Butler 1993:7]、こうした議論を、ルイ・アルチュセールの「呼びかけ」(interpellation)の議論に結びつけていく。たとえば彼女は、こう述べている。「アルチュセールの有名な呼びかけの場面では、警官は通行人に〈こら、そこのおまえ!〉と警呼するが、警呼されたのは自分だと思い、それに応えようと周りを見回す者は、厳密に言えば、その呼びかけのまえには存在していない。……振り向いた通行人は、まさに或る種のアイデンティティを、いわば罪悪感という代償を払って、獲得する。……呼びかけは、主体に生命を与え、それを存在させるのである」[Butler 1997a:25〔四〇〕]。バトラーは、アルチュセールが寓意的に語るこの場面で、なぜこの通行人は振り向くのかと問い掛け、そして、それは「私」が「法」によって存在しうるようになることを熱望する「法」との事前の共謀関係がそこにあるからだ、と自ら答える[Butler 1997b:107f.]。彼女によれば、法へのこうした振り向きと同時に生じるのは、まさに「良心」と呼ばれるべき「自己への振り向き」(a turning back upon oneself)であり、その再帰的な振り向きによってこそ「主体」が構築されていくのである。これは、「こら、そこのおまえ!」という法の告発に対して、「良心」に従って嫌疑を晴らそうとする企てのなかで、適法の具現、真っ当な市民としての「主体」が形づくられていく、ということにほかならない。
ところでバトラーは、『精神の心的生』のなかで、「警官の登場する場面は、遅きに失した繰り返しの場面であり、どのような場面でもその適切な証明とはならないような始原にある服従(founding submission)を明るみに出す場面である」とも語っている[Butler 1997b:111]。たしかに、警官の警呼に応えて振り向く誰かは、すでに「主体」となっている誰かでしかなく、それは、「始原にある服従」の場面ではありえない。しかし、バトラーは同時に、そうした「始原にある服従」の場面を言説化しようとすれば、何らかのフィクションをでっち上げることになってしまう、と直ちに述べてもいるのである。だとすれば、「女の子だ!」という産科病棟での名づけに主体としての「女」の誕生を読み取ろうとしていたはずの、すでに引用した彼女の言葉も、結局はフィクションだったわけである。なぜなら、サラ・サリーも指摘しているように、「女の子だ!」と宣告されたとき、嬰児が「振り向く」ことなどけっしてないからである[Salih 2003:79〔一四〇〕]。
「始原にある服従」を言説化できないと述べるバトラーが、その理由として挙げるのは、文法上の「主体=主語」を用いることによってしか、まだ主体ではないはずのものの服従の物語を物語ることができない、ということである。「まだ主体へと変化していない始原の服従とは、物語化できない主体の前史──主体形成の物語そのものに疑問を投げかける逆説にほかならない」と彼女は語っている[Butler 1997b:111f.][5]。しかし、問題は「文法上」の事柄以上のものであるように思われる。そう思われるのは、『権力の心的生』でのこうした議論のなかで、「呼びかけ」によっては主体化されない「残余」が逆に主体を生み出す──たとえば「呼びかけ」の失敗としてのヒステリーがヒステリー的主体を生み出す──と語り、そうした「残余」としての「現実界」の潜勢力を強調するスロヴェニアの評論家ムラデン・ドラーを、バトラーが批判しているからである[Butler 1997b:120-129]。ここでは彼女のドラー批判の詳細に立ち入ることはできないが、バトラーにとっての問題が、フロイトやラカンの精神分析が行なう主体形成の議論にあることは明らかである。というのも、バトラーは、エルネスト・ラクラウ、スラヴォイ・ジジェクと行なった論争のなかでも、ジジェク批判というかたちで精神分析への批判を行なっていたからである。彼女のそこでの批判を要約すれば、ラカンなどの精神分析が、「現実界」という前−社会的領域を社会性の「(擬似)超越論的」((quasi-)transcendental)な条件として位置づけ、 主体形成の根源的な歴史的偶発性に、その非−歴史的な限界を設けてしまったことにある、とまとめることができよう。そのことが彼女にとって問題であるのは、とりわけ「男/女」という二項対立的な性的差異がそうした非−歴史的な次元に取り込まれ、その攪乱の可能性が奪われてしまうからである。たとえば彼女は、「〔ラカン派は〕社会的関係にどっぷりと浸かっている関係を、あらゆる社会性から免れているものとして──なお悪いことには、そのような社会性の前−社会的で(擬似)超越論的な条件として定義してしまった」と語っているし、また、「無意識は前−社会的なものではなく、語りえない社会的なものが存続する或る様態である」とも述べて、精神分析が前−社会的と見做すものの社会性を主張しているのである[Butler, Laclau and Zizek 2000:153〔二〇七〕]。
2.メランコリー・ジェンダー
ところで、このように精神分析に対してきわめて批判的な立場に立つバトラーではあるが、そのバトラーが、なぜか精神分析の立場をなかば容認しながら、その主張を積極的に自らの議論に取り込んでいく。たとえば彼女は、『権力の心的生』のなかで、ミシェル・フーコーの議論、つまり、「主体化=隷属化」を唱え、規律=訓練による「従順な身体」の形成過程で、「精神」がまさに自らの身体を縛り上げる「身体の牢獄」として身体のうえに書き込まれていくと主張するフーコーの議論に言及しながら、「精神分析においては含蓄深い概念であった精神を、拘禁する魂(soul)に還元してしまうことは、規範化や主体形成に対する抵抗、つまり、精神と主体との共約不可能性から生まれる抵抗の可能性を排除してしまうことになりはしないだろうか」と述べている[Butler 1997b:87]。さらに彼女は、そうしたコンテクストで、精神分析を引き合いに出しながら、彼女がかつて批判したドラーとほぼ同じことを主張してもいるのである。──「生存可能で理解可能なこの存在、つまり、主体は、犠牲を払って生産される。そして、主体を創設する規範的要求に抵抗するものは、ことごとく無意識に留まるのである。このように精神は、無意識を含むものであり、主体とはきわめて異なっている。精神は……首尾一貫した主体になれと要求する言説から生まれる効果、自らを拘禁するようになる効果以上のものなのである」[Butler 1997b:86]。こうした言葉から読み取られるのは、精神分析に依拠しながら、「精神」を「主体」とは共約できないものと位置づけ、そして、「主体」からは排除される「精神の残余」のなかに主体化と規範化の「限界」を探り、そこからそれらへの抵抗の可能性を求めていこうとするバトラーの姿である。「心的生」(the psychic life)の分析がきわめて急務だという、『権力の心的生』などで繰り返し語られている言葉も、いわばそうした彼女の精神分析へのラブ・コールであろう。
しかし、これはどういうことなのだろうか。ジェンダーがパフォーマティヴに構築されると主張し、さらには、前−社会的なものの存在をあくまでも拒否しようとするバトラーの立場──それは、「法のまえ」に存在する主体などないという、彼女の「原点」ともいうべき着想から出てくるものなのだが──は、むしろフーコーの立場にきわめて近いものであるし、そうした立場を彼女は必ずしも撤回してはいない。それにもかかわらず、その彼女が精神分析の主張を受け入れねばならないと考えざるをえなかったのはなぜなのか、そのことをあらためて考えてみたい。
まず取り上げたいのは、バトラーが『触発する言葉』や『権力の心的生』のなかで繰り返し用いる「予めの排除」(foreclosure)という言葉である。この言葉は、ラカンがフロイトの"Verwerfung"の訳語として導入した"forclusion"の英訳であるが、彼女は『触発する言葉』のなかで、ラプランシュとポンタリスを引き合いに出しながら、"forclusion"とは「原初的な排除であって、排除されるものは、主体の住まう象徴界の外部に留まる」と述べ、さらに、「この〈外部〉は、与えられた象徴界の境界を画していく限界、外部性であり……外部に置かれ象徴界から拒絶されたものは、その排除を通してまさに象徴界をまとめていく」と語っている[Butler 1997a:180〔二七四〕]。──ところで問題は、バトラーが、主体はまさにこの「予めの排除」によって現われると主張することにある。彼女はこう述べる。「〔予めの排除においては〕たしかに何かが締め出されているが、主体がそれを締め出しているのではなく、むしろ主体はその締め出しの結果として登場する。締め出しは……主体がこの一次的切断の結果としてパフォーマティヴに生産されるためになされる行為である。その残余、つまり除外されたものはあらゆるパフォーマティヴィティのなかの遂行不可能なものを構成する」[Butler 1997a:138〔二一五〕] [6]。彼女が述べようとしているのは、ジェンダーがパフォーマティヴに構築されるとしても、そこでは「予めの排除」によって遂行不可能なものがあらかじめ定められ、われわれのジェンダーの構築を制約し誘導している、ということである。たとえばバトラーは、「主体が一連の予めの排除を通して……作られるならば、その基盤にある構成上の限界が、主体の行為性が働く場面を定める」とも語っているし[Butler:1997a:139〔二一七〕]、私が冒頭で引用した「精神分析は、無意識の不透明性が精神の外化に制限を加える、と主張している」という彼女のインタビューでの発言も、こうしたコンテクストで語られたものなのである。
ところで、こうした「予めの排除」によるジェンダーの構築の制約について、バトラーが具体的に語っているのは、『精神の心的生』などよりもむしろ『ジェンダー・トラブル』第二部第二章「フロイトおよびジェンダーのメランコリー」である。話が逆戻りすることになるが、再度『ジェンダー・トラブル』に立ち返って、フロイトの「喪とメランコリー」や『自我とエス』を引き合いに出しつつ彼女がそこで行なった議論を、フロイト自身の議論と対照させながら辿っていくことにしたい。
フロイトは、一九一七年の「喪とメランコリー」のなかで、喪とメランコリーはともに愛する対象を失った反応であるが、喪が失った対象へのリビドー備給を断ち切る「喪の作業」(Trauerarbeit)によって喪失を克服しようとするのに対し、メランコリーにおいては、誰を失ったか分からず、対象の喪失を否定し、失った対象へのリビドー備給を断ち切るのではなく、むしろ失った対象を自らと同一化することによって、それを自我のなかに取り込むことになる、と述べている。いわばメランコリーは、喪失を認めることも嘆くこともできない喪失であるが、そこにおいては「対象とのナルシシズム的同一化(die narzißtische Idenfizierung)が愛の備給(Liebesbesetzung)の代理となる」のであり、「愛は自我のなかに逃げ込むことによって消滅を免れる」のである[Freud 1989a:203;210]。ところが、一九二三年の『自我とエス』においては「〔メランコリーで示されるような〕この同一化は、一般にエスがその対象を棄てる条件なのかもしれない」と述べられ、メランコリー的同一化が、喪の場合も含めて、対象喪失の一般的構造であることが示唆されるようになる。そして、さらに重要なことに、そこでは、メランコリーにおける対象備給の同一化による代償が、「自我形成にきわめて関係しており、性格と呼ばれるものを作るうえで重大な貢献をしている。……自我の性格は、棄てられた対象備給の沈殿であり、対象選択の歴史を含んでいる」とも語られ、失った愛の対象の取り込み(Introjektion)が、自我形成において果たす大きな役割が指摘されているのである[Freud 1989a:296f.]。──ちなみに、ここで「性格」として語られているものに、ジェンダー・アイデンティティがその決定的な契機として含まれていることも、付け加えておきたい。
ところで、この同一化は、愛した対象との無差別な融合といったことを意味するものではけっしてない。フロイトは、メランコリー患者のさまざまな自責の訴えに触れて、それが対象への愛と憎しみのアンビヴァレントな葛藤が、対象の喪失によってより高められ、自己自身の内面へと反転したものであり、ここに、メランコリー患者の自殺という結果をも生むような自我と自我自身の間の「分裂」が生じる、とも語っているが、これは、自我と対立し自我を監視する審級としての「超自我」ないし「自我理想」の誕生を予告する言葉でもある[Freud 1989a:203]。
こうして、『自我とエス』の叙述は、エディップス期における「超自我」形成の議論へと進んでいくことになる。周知のように、エディップス・コンプレックスとその解消の筋書きとは、男児の場合、最初の性愛の対象であった母を、近親姦タブーを唱える父の禁止の声によって断念し、自らを父と同一化した結果、「超自我」が生み出される、というものである。だとすれば、ここで直ちに難問が生じる。失った対象との同一化という図式からすれば、男児が同一化すべきは母であって父ではないはずだし、母と同一化した男児は「女性性」を身に帯びることになるはずなのである[7]。フロイトは、この矛盾を認めながらも、「同一化」を二重化することで問題解決を図ろうとする。つまり彼は、失った愛の対象との同一化に先立つような「いかなる対象備給(Objektbesetzung)よりも早い、直接的で無媒介な」同一化の存在を仮定しようとするのである。彼は、『自我とエス』だけではなく、一九二一年の『集団心理学と自我の分析』でもこうした同一化についてすでに語っている。──そこでの叙述によれば、幼い男児が父と同じでありたい、父のようになりたいと願うことがしばしばあるが、ここにあるのは「もちたい」ものとしての性的な対象選択以前に現われる同一化であり、それは「なりたい」ものとしての父を「模範」として自我形成を目指すものである。フロイトは、男児が父との同一化をいわば先取りしたかたちで示すこうした一次的同一化を仮定することで、エディップス・ドラマにおける男児の二次的同一化、つまり男児が母ではなく父と同一化することの矛盾を解消しようとするのである[Freud 1989c:98f.;1989a:298f.]。
ところでフロイトは、同一化のこうした二重化について語っておきながら、さらにそれに続けて個々人の「素質上の両性性」(die konstitutionelle Bisexualität)についても語りはじめる。たとえば彼は、父を愛の対象とするのを断念したのち、父と同一化して「男性性」を示したという女児の例を挙げ、それにはこの女児の「男性気質」(männliche Anlagen) が明らかに関係している、と述べている。──彼がここで述べているのは、この女児が「男性性」を示したのは、父とのメランコリー的同一化によるというよりは、むしろそれに先立つものとして、そうした同一化を可能にするような「男性気質」によるものだということである。そして、そう述べたあと彼は、エディップス・ドラマにおいて幼児が父と母のどちらとの同一化に終わるかは、「両性のいずれにおいても男性気質と女性気質のどちらが相対的に優勢かにかかっている」と断言する。彼によれば、その結果、男女双方に陽性と陰性の四つのエディップス・コンプレックスの傾向が生まれることになる。──それは、たとえば男児の場合、父への同一化と母を巡る父との抗争という陽性コンプレックス、および、母への同一化と父を巡る母との抗争という陰性コンプレックスが見出される、ということである。さらに彼は、同じ箇所で、幼児の両性性に基づく「いっそう完全なエディップス・コンプレックス」としての「陽性と陰性の二重のコンプレックス」について語り、男児が父母のいずれとも同一化し、そのいずれをも対象選択するという両親とのアンビヴァレントな関係の事例をも示しているのである[Freud 1989a:299-301]。こうした叙述に照らし合わせるならば、同一化の問題は、幼児のこの両性性および「男性気質/女性気質」に立ち返ってあらためて考えなければならないことになるし、たった今言及したばかりの「いかなる対象備給よりも早い、直接的で無媒介な」同一化というフロイトの仮定も、この幼児の両性性からすれば、きわめて疑わしいものとなる。なぜなら、両性性を有する男児は、必ずしも父との模範的同一化を成し遂げ、「男性性」を示すとはかぎらないからである[8]。
バトラーがフロイト批判をはじめるのは、まさにこの「気質」を巡ってである。まず彼女は、フロイトが考えるように、幼児の両性性=両性愛が一次的なものだとすれば、男児は、エディップス・ドラマにおいて父か母のいずれかを対象選択するに先立って、「男性気質」と「女性気質」という性的気質のいずれかを「選択」しなければならないことになる、と述べる。そして彼女は、男児がほとんどの場合「男性気質」を選び、異性愛的な陽性コンプレックスの道を歩むのは、「異性愛文化のなかで男の同性愛に対して連想される〈女性化〉を恐れる結果である」と述べ、それに続けて「罰せられる……のは母に対する〔近親姦的な〕異性愛の欲情ではなく、文化に公認されている異性愛に道を譲る同性愛のリビドー備給である」と語っている[Butler 1999:75f.〔一一七〕]。彼女はこう語りながら、男児に男性気質を、女児に女性気質を選ぶよう強制させるのは、彼女のいう「異性愛のマトリックス」によって構造化された社会における「同性愛タブー」であると主張する。フロイトにとって、男性気質と女性気質のいずれが優勢であるかは、あらかじめ定められた「精神の一次的事実」であり、「選択」以前の事柄であったが、バトラーは、「気質」(disposition)とはむしろ「定置される」(disposed)ことによって構築されたものではないかと述べ、「気質」を同性愛タブーによって強制された「選択」の結果、「文化が押しつける法によって……生み出される効果」として考えようとするのである[Butler 1999:81〔一二三〕]。
こうした議論を行なったあと、バトラーは、彼女のフロイト解釈の核心を語りはじめる。「エディップス・コンプレックスの解決は、ジェンダーの同一化に影響を及ぼすものだが、それが行なわれるのは、近親姦タブーを通してだけではなく、それに先立つ同性愛タブーを通してである。その結果、ひとは同性の愛の対象に同一化することになり、それによって同性愛のリビドー備給の目標と対象の双方を内面化してしまう。メランコリーへと帰結していく同一化は、解決されない対象との関係を保存する様式なので、自分と同じジェンダーに同一化する場合、解決されない対象との関係はつねに同性愛的なものである。実際……呵責のないジェンダー境界が必ず作動して、それとは知らないまま、解決できなかった始原の喪失は隠蔽されていく」[Butler 1999:80f.〔一二二−一二三〕]。──ここで彼女が語ろうとしているのは、男児の父への同性愛的欲望は、「同性愛タブー」によって禁止されるため、解決されないものとしてメランコリー的に内面化されて、男児は父との同一化を果たしていく、ということである。また、さらに彼女が語ろうとしているのは、メランコリーにおいて喪失は喪失として認められない以上、父への同性愛的欲望の喪失においては、対象の喪失も欲望の存在も名づけることのできないものとして否定され、この「始原の喪失」が隠蔽されていく、ということでもある。
さて、バトラーがフロイトの批判的解釈から導き出した主張を要約すれば、同性愛タブーが異性愛の近親姦タブーに先立つということ、つまり、同性愛タブーが異性愛「気質」を作り出し、この異性愛気質によってエディップス・ドラマが可能になるということになろう。さらに重要なのは、このことがメランコリーの構造を通じて行なわれ、否認された同性愛的欲望の対象への同一化によってジェンダー・アイデンティティが構築されていくという点[9]、つまり、異性愛的なジェンダー・アイデンティティの構築の「始原の場面」には否認された同性愛的欲望があるという点であろう。バトラーは、「自然的」と見做される異性愛アイデンティティの始原に同性愛的欲望があることを示すことによって、それがけっして安定的でも首尾一貫的でもないという、その「脆弱性」を訴えようとするのである[10]。
3.メランコリー・ジェンダーふたたび
ところで、『ジェンダー・トラブル』のなかでフロイト解釈を通してなされたこうした議論は、『問題=物質なのは身体だ』や『権力の心的生』などそれ以後の著作のなかで、「予めの排除」という概念とともに、繰り返し語られることになるものである。以下では、それらの著作に話を戻して考えていくことにしたい。
バトラーは、たとえば『権力の心的生』においても、『ジェンダー・トラブル』で述べられたような、異性愛は否認された同性愛から出発するという主張を繰り返し語っている。彼女は、或る箇所で、フロイトの『性欲論三篇』を引き合いに出しながら、異性愛は「困難を乗り越えつつ獲得されていく」ものだと語り、そうした「獲得」は、同性愛的固着の断念を求める禁止、「その喪失を認めたり嘆いたりすることを禁じる」禁止によって成し遂げられていくと述べたあと、「それを獲得するこの力は……同性愛的固着の可能性を先取りして封じる(preempt)こと、つまり、その可能性を排除して、同性愛の領域を生きることのできない情動、嘆くことのできない喪失として生み出す〈予めの排除〉として理解することができるだろう」と述べている[Butler 1997b:135]。もちろん、この異性愛の獲得は、メランコリックな同一化によってなされるものである以上、否認された同性愛のリビドー備給は、廃棄されるのではなく、同一化がなされる対象へ向けられたものとして、その対象とともに内面化され保存されることになる[11]。しかしだからこそ、このようにして構築される異性愛アイデンティティはきわめてアンビヴァレントなものになるわけである。つまり、私は男を欲望したかぎりにおいてしか男でないし、女を欲望したかぎりでしか女でない。にもかかわらず、この同性愛的欲望の充足は「予めの排除」によって奪われ、先取りして奪われたこの喪失を、私は認めることも嘆くこともできない。つまり、「私はその人を愛したことなどけっしてない、私はその人を失ったのではけっしてない」という愛とその喪失に対するこの"never-never"という「二重の否認」(the double disavowal)によってはじめて、異性愛者としての「私」がかろうじて姿を現わすことになるのである[Butler 1997b:23]。
しかし、異性愛アイデンティティが、嘆くことを先取りして奪われた同性愛の対象の喪失とともに、その対象へと向けられた欲望の内面化のうえに成り立っているとすれば、異性愛者たちは「病」としてのメランコリーを発症しかねない状況のなかでつねに生きていることになる。バトラーは、異性愛社会に蔓延しているメランコリーについて語ってもいるが、それは、否認された同性愛のリビドー備給を内面化した異性愛者たちが、"never-never"というこの「二重の否認」を繰り返すことなしにはそのアイデンティティを維持できず、「同性愛パニック」、「エイズ・パニック」が社会に広まるなかで、異性愛者たちの異性愛アイデンティティが防衛的に誇張されればされるほど、その対象の喪失を嘆くことができない同性愛のリビドー備給が異性愛者たちをますます脅かすことになり、その結果、彼女のいう「ジェンダー・メランコリーの文化」のなかでメランコリーが蔓延していくことになるからである [Butler 1997b:139]。
こうした議論を行なったあと、バトラーはあらためてジェンダー・パフォーマティヴィティの問題を取り上げる。彼女は「ジェンダー・メランコリーの現象は、ジェンダー・パフォーマティヴィティの実践とどのように関係しているのか」との問いを発していたが[Butler 1997b:144f.]、次に考えたいのはまさにそのことである。──バトラーによれば、ジェンダー・パフォーマティヴィティに関して、ジェンダー・メランコリーの分析から出てくる帰結は、「ジェンダー・パフォーマンスは嘆くことができない喪失を寓意化するものであり、対象を棄てることを拒んで、その対象を亡霊のように身に帯び取り込むというメランコリックな体内化(incorporation)のファンタジーを寓意化するものである」ということであり、このことについて彼女はさらに、「ジェンダーそのものは、解決できない嘆きの行為化(acting out)として……理解できよう」とも述べている [1997b:145f. ][12]。このことをゲイ男性のドラァグ・パフォーマンスに当て嵌めるなら、女装したパフォーマーは自らの愛の対象としての可能性を否認した女性のジェンダーを身に帯びることで、彼のゲイ・メランコリーを寓意化していることになる。しかし、バトラーによれば、こうしたドラァグが反照的に暴き出しているのは、むしろ異性愛のメランコリーである。つまり、ドラァグは、同性愛の可能性を予め排除することで異性愛化されたジェンダーを形成するようなパフォーマティヴな実践をむしろ寓意化しているのである。ここで彼女は、この意味では「もっとも真なる」ゲイ・メランコリーを患っているのは異性愛の男であり、「もっとも真なる」レズビアン・メランコリーを患っているのは異性愛の女である、と逆説的な語り口で語る。というのも、「異性愛の男は、愛したことのけっしてない、嘆いたことのけっしてない男になる(模倣する、引用する、我有化する、その資格を装う)(mime, cite, appropriate, assume the status of)のであり、異性愛の女は愛したことのけっしてない、嘆いたことのけっしてない女になる」からである。こうした異性愛者たちのパフォーマンスのなかでジェンダーとして遂行されるのは、この"never-never"という否認の病的徴候にほかならず、ここでは「〔否認されて〕セクシュアリティとしては遂行不可能となったものがジェンダーの同一化として遂行されて」いるのである [Butler 1993:235;1997b:146f.][13]。
ところで、バトラーは『権力の心的生活』のなかで、多くの自殺者をも生み出している同性愛者のメランコリーに言及しながら、同性愛者たちがこの異性愛社会のなかで生きていくためには、異性愛者に対抗して、同性愛者としてのアイデンティティを首尾一貫したものとして明示していく政治的必要があるかもしれないが、それが誇張されればされるほど、異性愛者のメランコリーの場合と同様に、そのことによって否認された異性愛のリビドー備給がますます同性愛者を脅かす結果になる、との懸念を示している[14]。さらに彼女は、アイデンティティを非−首尾一貫的(incoherent)なものにするという危険を冒すことなしにはこの問題は解決しないのではないか、と述べてもいるのである。しかも、そう述べたあと、突如彼女は、今までのメランコリー・ジェンダーの議論が「誇張表現」だったことを認め、同性愛者にとっても異性愛者にとっても「同一化が欲望と対立したものである必然的な理由はない。また、欲望が否認(repudiation)によってリビドー備給される理由もない」と語り出す[Butler 1997b:148ff.]。いったい彼女は何を語ろうとしているのだろうか。──彼女の真意を解き明かす鍵は、『権力の心的生活』とほぼ同じ叙述がなされていた『問題=物質なのは身体だ』のなかに見出されるように思われる。というのも、そこでは、同性愛においては「男性的」、「女性的」というカテゴリーを超えた「ジェンダー」が存在するかもしれないと語られており、さらには、「同一化と欲望の関係」について、「女に同一化することが必ずしも男を欲望することではなく、女を欲望することが男としての同一化において構成された存在を必ずしも指し示していないならば、異性愛のマトリックスとは、それ自体が成し遂げることのできない代物であることを執拗に暴露してしまう想像上の論理だということになる」とも述べられていたからである[Butler 1993:238f.]。しかし、「同一化が欲望と対立したものである必然的な理由はない」という彼女の言葉が、ジェンダーとセクシュアリティの区別、つまり、ジェンダー・アイデンティティとセクシュアル・オリエンテーションの区別を語っているものだとすれば、それはすでにフェミニズムの「常識中の常識」にすぎないのではなかろうか。言うまでもなく、この「常識」が示しているのは、自分を男だと意識することと女に欲情することとは別だということである。バトラーは、フロイトのメランコリックな同一化の議論に夢中になるあまり、この「常識」を忘れてしまったとでもいうのだろうか。──ここで疑問が生じるのは、その彼女が『ジェンダー・トラブル』においてもすでに、フロイトがジェンダーとセクシュアリティを混同しているとして、彼を批判していたからである。話がいささか後戻りすることになるが、そのことについて少し振り返ってみたい。
バトラーがそこで問題にしたのは、フロイトが語っていた例の「気質」についてである。フロイトによれば、男性気質は、性愛の対象としてけっして父に向かうことはなく、女性気質は母には向かわない。これは、男性的な欲望は女性的なものに、女性的な欲望は男性的なものにしか向かわないということである。このことから彼女が読み取るのは、両性性=両性愛を一次的なものと見做すにもかかわらず、そのフロイトにとって「同性愛」はそもそものはじめから存在せず、彼のいう「両性愛」とは「一つの精神のなかの二つの異性愛的欲望の同時発生」にすぎないということだったである[Butler 1999:77〔一一九〕]。つまり、彼女がフロイトを批判したのは、彼が男の「同性愛的欲望」をその男の「女性気質」に摩り替え、つまりは、「ホモセクシュアル」を「トランスジェンダー」に摩り替えようとしたからである。しかし、『ジェンダー・トラブル』においては、この批判はその後の彼女の議論に結局は生かされず、むしろフロイトに即した議論が進んでいくことになる。推測するに、自ら行なったこうした批判をまともに議論に取り込んでいたならば、『ジェンダー・トラブル』におけるバトラーの議論は破綻していたと思われる[15]。──しかし、おそらく破綻するのは『ジェンダー・トラブル』の議論だけにとどまりはしないだろう。むしろ、それ以降のメランコリー・ジェンダーの議論のすべてが破綻するのではなかろうか。というのも、「同一化が欲望と対立したものである必然的な理由はない」という『権力の心的生』の叙述とはまったく逆に、「女に同一化することが男を欲望することであり、男に同一化することが女を欲望することである」ということを自明の前提として、そうした議論は組み立てられていたはずだからである。
ところで、彼女の議論が「破綻」したのだとしても、その「破綻」にもかかわらずここで注目したいのは、バトラーが、現代の異性愛文化のなかで、異性愛者か同性愛者かを問わずすべての人々が陥っているメランコリックな閉塞状況から抜け出す可能性として示唆していた「アイデンティティを非−首尾一貫的なものにするという危険を冒す」という言葉である。実は、彼女は『ジェンダー・トラブル』とほぼ時を同じくして公表された「模倣とジェンダーへの抵抗」のなかで、この言葉に相通じるような議論をすでに行なっていたのである。最後にこの論文を手掛かりにして、彼女の議論から何ものかを得るための糸口を探ってみたい。
バトラーは、この論文のなかで、失った愛の対象をアイデンティティのなかに取り込む「同一化」には、その対象を模倣する「心的なミメーシス」(psychic mimesis)が含まれていると指摘しながら、フロイトのいわゆる「メランコリックな体内化」を「一種の心的な模倣」であると語り、さらには、「そうした心的模倣の場としてのジェンダーは、かつて愛しその愛を失ったさまざまにジェンダー化された他者たち(variously gendered Others)によって構成される」と述べていたのである[Butler 2004:132〔一二九−一三〇〕]。ただ、彼女は何の典拠も示さず、それがフロイト自身の主張であるかのように語るが、「さまざまにジェンダー化された」という彼女の言葉が、「男/女」という二者択一ではないジェンダーの可能性を示唆していることを考えれば、彼はそうしたことをどこでも明言してはいなかったはずである。もっとも、バトラーのために抗弁するならば、フロイトもまた、父母のいずれとも同一化する男児というすでに引用した例に示されるように、複数の対象との同一化について語っており、それらの間の葛藤が昂じて「多重人格」(die multiple Persönlichkeit)といった病的な帰結を生むこともあるが、必ずしもそうならない場合もあると述べていたこともまた事実なのである[Freud 1989a:298]。ここではバトラーのフロイトへの言及の当否を判断することは控えたいが、彼女はこう述べたあと、主体はさまざまにジェンダー化された複数の他者たちによって構成される以上、「主体は、ジェンダーとしては、けっしてセルフ・アイデンティティをもちえない」と語り、そして、さらにこう結論づけるのである──「そうした〈他者〉(Other)が自己のなかに組み入れられるならば……いわば〈自己〉は、そうした〈他者〉によってつねに混乱させられてしまう。しかし、この自己の核心で生じる〈他者〉によるこの混乱こそ、〈自己〉を可能にする条件そのものである」[Butler 2004:133〔一三〇〕][16]。
バトラーは、『権力の心的生活』においても、メランコリーが示しているのは「他者を自己自身として取り込むことで、ひとが何ものかになる」ということだと述べ、さらに「自我を生み出す他者性の痕跡(the trace of alterity)の力」について語りながら、「自我の自律を受け入れることは、この痕跡を忘れることである」とも述べている[Butler 1997b:195f.]。ここで語られているのは、われわれが自らの「自律」をフィクションと認め、自らの「他者性」を受け入れねばならないということであろう。しかし、この「自己」のアイデンティティが、さまざまにジェンダー化された複数の他者たちによって構成される「非−首尾一貫的」なものであるならば、亀裂や軋轢を内に含んだそうした「自己」は脆弱なものかもしれないが、いわば「多重人格」的なその「複合的アイデンティティ」のありかたは、むしろわれわれのジェンダー・アイデンティティを攪乱し、それを脱構築していく契機となるものではなかろうか[17]。
すでに述べたように、メランコリー・ジェンダーの議論を大幅に修正しながら、「非−首尾一貫的」なアイデンティティを主張するバトラーのこうした叙述は、彼女の議論そのものの「非−首尾一貫性」、その「破綻」を示すものである。しかし、その「破綻」のなかから読み取りうるものもまた少なくないと思われる。
まだ書き残したことも多いが、それは今後の課題とし、アイデンティティのこの「非−首尾一貫的」なありかたのポジティヴィティを差し当たりの結論として、ひとまずここで擱筆することとしたい。
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江口聡 2007 「ポルノグラフィーに対する言語行為論的アプローチ」、『京都女子大学大学院現代社会研究科論集』第一号。
宗像惠 2003 「性の越境とセクシュアリティ:ジュディス・バトラー、蔦森樹」、『国際文化学研究』第二〇号、神戸大学国際文化学部紀要。
付記
本稿は、2008年10月3日、筑波大学で開催された日本倫理学会第59回大会のワークショップ、「性の倫理学の可能性を探る」(発表者:江口聡、坂井明宏、高橋雅人、魚住洋一)において行なった口頭発表に大幅に加筆したものである。
註
[1] たとえばマーサ・ヌスバウムは、バトラーのドラァグの議論に触れて、こう述べている。「男の衣装を着た女は、目新しい姿ではほとんどない。……彼女は、既存のステレオタイプと男/女社会の階層秩序のレプリカをレズビアンの世界で作っているにすぎない。……ドラァグに見られる階層秩序も、やはり階層秩序ではないのか」[Nussbaum 1999]。
[2] しかし、『ジェンダー・トラブル』の二年前に公表された「パフォーマティヴ・アクトとジェンダーの構成」においては、「ジェンダーを構成しているさまざまな行為は、演劇の世界における演技に似ている」と述べられ、ジェンダーのパフォーマティヴな構成が、役者が「台本」に従いながらも自由な「解釈」もなしうる「演技」に喩えられているし、またそこでは、きわめて実存主義的な「投企」(project)という概念が、生き残りを図るために自らの身体に「女」というかたちを与える「策略」として用いられてもいたのである[Butler 1990:272f.]。そうした箇所を読むかぎり、バトラーのいうジェンダー・パフォーマティヴィティを、主体の存在を前提するような、アーヴィン・ゴフマンのいう「役割演技」として「誤解」されるのも、理由のないことではなかろう。
[3] バトラーがオースティンの言語行為論を「誤読」している点については、[江口聡 2007]を参照されたい。
[4] それだけではない。デリダの「反復可能性」という概念は、ジェンダー規範の攪乱の可能性をも示唆しているからである。彼のいう「反復可能性」とは、何ごとかを意味するあらゆる記号にとって、その機能が一回だけの出来事のなかで尽きてしまうのではなく、異なるコンテクストで反復して機能しうるということを示している。というのも、別のコンテクストにおいても機能しうるのでなければ、記号はそもそも記号ではないからである。このことは、オースティンならば「不適切」(infelicitous)と見做すようなコンテクストのなかに記号が「引用」され、その引用が「失敗」する可能性を、記号は免れることができないということをも物語っている。デリダは、不適切なコンテクストのなかへの記号のこうした再配置、引用の避けられない失敗を「引用的接木」(greffe citationnelle)と名づけるが、バトラーは、ジェンダー・パフォーマティヴの「失敗」を引き起こすそうした「引用的接木」にこそ、その攪乱の可能性を見出すのである[Butler 1997a:151〔二三四〕]。ここに至って、彼女の議論の重点は、「パフォーマティヴィティ」から「引用性」へと移ることにもなる。
[5] バトラーは、『触発する言葉』のなかでも、主体形成の「まえ」について語る物語とは、「〔「主体=主語」という〕文法のまえにある場面を、定義上その場面のあとに存在する文法の語彙によって説明しようとする」ことにすぎず、「その説明は、それが説明しようとしているものが生み出した効果にすぎない」として、そうした説明の「遅延性」(belatedness)を指摘していた[Butler 1997a:138〔二一五〕]。
ところで、ここで思い出したいのは、バトラー自身が、「私」が「法」によって存在しうるようになることを熱望する「法」との事前の共謀関係について語っていたことである。彼女は『ジェンダー・トラブル』一九九九年版「序文」のなかでも、『ジェンダー・トラブル』での「法のまえ」についての議論は、カフカの「掟の門前」についてのデリダの解釈から得られたものだと述べ、ひとは法を待ち求め、待ち求める法に魅了されて、自ら進んでそれに呪縛されていくのだが、われわれが自らをジェンダー化してしまうのは、まさにその典型的事例だとも語っていたのである[Butler 1999:XIV]。──「法のまえ」についての物語を物語ることはできないと述べる当の彼女自身が、「法のまえ」についてのこうした「フィクション」を繰り返し語ってしまうのは、一種の皮肉であろう。
[6] バトラーは、『権力の心的生』のなかでは、この「予めの排除」を「抑圧」(repression)と区別して、「抑圧」が「すでに形成された主体による行為」であるのに対し、「予めの排除」は「主体を創設し形成する否認の行為である」とも述べている[Butler
1997b:211f.]。
[7] フロイトによれば、両性とも最初の性愛の対象は母だとされる。だとすれば、エディップス期の「去勢コンプレックス」によって愛した母から離反する女児は、母と同一化することになり、女児の場合には、さしあたり問題は生じないことになる[Freud 1989b:278ff.]。
[8] 以上のフロイトの議論については、ポ−ル・リクールのフロイト解釈をも参照されたい[Ricœur 1965:209-225〔二二四−二四〇〕]。
[9] バトラーは、メランコリーにおける対象との同一化に触れて、それが自我に対立する自我理想を作り出すことになる、というフロイトの議論を引き合いに出しながら、自我理想の構築は「ジェンダー・アイデンティティを内面化すること」であり、「男性性や女性性をうまく強化していく手段」でもあるとも語っている[Butler 1999:79f.〔一二一〕]。
[10] ところで、バトラーは『ジェンダー・トラブル』の別の箇所で、異性愛は自らを定義しその安定性を確保するために同性愛を必要とすると語り、「同性愛は、抑圧されるためには生産されねばならない欲望として現われる」と述べている[Butler 1999:98〔一四四〕]。サラ・サリーはこの言葉について、こうした定式化は、同性愛タブーが近親姦タブーに先行する、つまり、同性愛的欲望が異性愛的欲望に先行するという、バトラー自身の主張と矛盾するのではないかと語り、こうした定式化からすると、同性愛は、逆に、異性愛の安定化を図るために生産される二次的な形成物であることになりはしないか、と疑問を呈している[Salih 2003:60〔一〇八−一〇九〕]。
しかし、サリーが指摘している箇所とは、バトラーが、「法のまえ」のセクシュアリティという幻想そのものが、その「法」によって事後的に作り出されたものであると語っていたくだりである[Butler 1999:94〔一四〇〕]。彼女によれば、精神分析では両性愛や同性愛は一次的なリビドー気質と見做されるが、それらをそのように「法のまえ」にあるものと見做すことがそもそも誤りなのである。サリーは、タブーの存在は禁止されるものがあらかじめ存在することを前提していると語るが[Salih 2003:55〔一〇〇〕]、バトラーによれば、むしろ同性愛は、同性愛タブーによって異性愛とともにはじめて生産されるのであり、同性愛的欲望が異性愛的欲望に先立って存在するわけではないのである。
サリーの指摘とは別に、むしろこの箇所で問題なのは、バトラーが、両性愛や同性愛は、ラカンのいう象徴界の「内部」であるにもかかわらず「外部」として構築されたものにすぎず、「文化の理解可能性のマトリックスから排除(exclude)されているのではなく、周縁化(marginalize)されているにすぎない」と述べていることであろう[Butler 1999:98〔一四五〕]。彼女が述べるように、両性愛と同性愛が象徴界の外部へと「排除」されているのではなく、単にその内部で「周縁化」されているにすぎないとすれば、それは「現実界」を否定することにもなり、彼女が精神分析に依拠する理由は失われてしまうはずである。「象徴界」の外部としての「現実界」などないというのは、「法のまえ」には何ものもないとする彼女の主張から出てくる当然の帰結なのだが、にもかかわらず、彼女は『ジェンダー・トラブル』以降の著作においても、「予めの排除」という精神分析の概念を繰り返しもちだし、象徴界の外部があるかのように語り続けるのである。だとすれば、ここに示されているのは、バトラーの議論そのものの矛盾ではなかろうか。
[11] メランコリックな同一化におけるリビドー備給のこうした外から内への反転を証言してくれるのは、「自我が対象の特徴を取り入れて、エスに対して自ら愛の対象として迫り、〈見てごらん、おまえは私も愛することができる、私はこんなに対象に似ているのだから〉と言いながら、エスが失ったものを償おうとする」というフロイト自身の言葉であろう[Freud 1989a:297f.]。
[12] 「体内化」とは、フロイトのいう"Einverleibung"であるが、彼は、「喪とメランコリー」のなかで、メランコリーにおける同一化は、口唇期における対象関係への退行であり、「食べる」というかたちで対象と合体しようとする「体内化」としても把握できる、と述べている[Freud 1989a:203]。
また、「行為化」とは、フロイトのいう"Agieren"であり、無意識的な欲望と幻想に囚われた患者が、その起原に気づかないまま、その欲望と幻想を現実に生きることをいう。このことをバトラーは「寓意化」という言葉で言い表そうとしたのであろう。
[13] ところで、サラ・サリーも述べているように、同性愛のメランコリーは、異なった喪失によって特徴づけられるかもしれない[Salih 2003:133]。それは、心的喪失ではなく、エイズで亡くなったが、反同性愛社会のなかで、その死を「嘆くことができない」人々の現実的喪失である。バトラーは、その死の哀悼の場を作り出さねばならないとして、そのことの政治的重要性についても指摘している[Butler 1993:236;1997b:148]。
[14] バトラーが『ジェンダー・トラブル』のなかで指摘していたのは、異性愛的欲望が思考不可能である同性愛者もまた、メランコリーの構造によって、異性愛を同一化によって自我のなかに取り込んでいくことになるが、明らかに違うのは、「異性愛者による同性愛の否定は、同性愛の禁止によって文化的に強制されるものなので」、異性愛の禁止のないところで生じる「同性愛者のメランコリーの構造と同列に扱うことはできない」ということであった[Butler 1999:89〔一三三〕]。──ただ彼女は、異性愛的欲望が同性愛者にとって「思考不可能」となるのはなぜなのかについては何の理由も示していない。
[15] たとえば、バトラーが『ジェンダー・トラブル』のなかで取り上げているドラァグの例にしても、「私の〈外側の〉外見は男だが、私の〈内側の〉本質は女である」というニュートンの言葉を、彼女は無批判にそのまま引用していたが、このことは、彼女が、ゲイ男性の同性愛的欲望を、フロイトと同じように、「女性気質」によるものと見做していることの証拠ではなかろうか。
[16] この論文では、対象との同一化を果たす「模倣性」(mimetism)は、その対象への欲望に先立ったものとして、逆にその欲望を構成するものであり、「自己」はそもそものはじめから「他者」に巻き込まれていると主張する、ル−ス・レイズなどの議論も紹介されているが、欲望の対象の「喪失」とその対象の「模倣」のどちらが先行するのかについて、バトラーは「自己が自己となるのは、別離を被ったときのみである」と述べて、対象の模倣を先行させるレイズの立場ではなく、その喪失を先行させるフロイトの立場に立つことを表明している[Butler 2004:132f.]。
[17] バトラーはまた、「欲望のエコノミーは、つねに或る種の拒否と喪失を通して働くのかもしれないが、それは……無矛盾性の論理によって構造化されたエコノミーではない」と述べたあと、「ポスト矛盾的な精神の流動性」(postcontradictory psychic mobility)について語り、「こうした精神の流動性は、厳格に打ち立てられた否認の論理が精神の生き残りのために必要ではないことを示しているのではなかろうか」とも述べている。そうした言葉も、「非−首尾一貫的」なアイデンティティのありかたを指し示すものと思われる[Butler 1997b:164]。