魚住洋一
この小論の狙いは、フッサールのいわゆる〈現象学的還元〉を方法論的に再検討することによって、彼の超越論的現象学が至り着いた次元を明らかにすることにある。私は特に、「現象学的還元の理論」という副題をもつ一九二三年から一九二四年にかけての冬講義『第一哲学』第二部を手掛りとしたい。
さてフッサールの現象学は、彼自身も繰り返し語っているように、超越論的現象学であった。つまりフッサールの独自性は、超越論的現象学というかたちで、現象学と超越論哲学を接木した点にある。しかし、それは接木にはとどまらない。なぜならフッサールはむしろ、現象学を超越論哲学として、また逆に超越論哲学を現象学として遂行しようとしたのであり、いわば現象学と超越論哲学の相互的な批判を狙っていたからである。問題は、この両者の相互的な批判の運動がフッサールの思惟を或る極限にまで導いていくということにある。
ところで私は、このような事態をフッサールの方法としての現象学的還元のなかに読み取っていきたいと思う。というのも私には、フッサールにおいて現象学的還元として方法化されたものが、現象学的な〈明証性への還帰〉と超越論哲学的な〈超越論的自我への還帰〉という互いに区別されつつ補完しあう二つの運動であると思われるからである。まず、フッサールが明証性へ還帰しようとしたことには、疑いを挾めない。なぜなら、彼にとって明証性こそいっさいの認識を権利づけるものにほかならなかったからである。周知のように、『イデーンT』では「あらゆる原理の原理」として次のように述べられている。「根源的に与える直観はすべて、認識の権利源泉である。つまりわれわれに〈直覚〉において根源的に示されるものはすべて、与えられるがままに素直に、しかしまたそれが与えられる限界のなかでのみ受け取らなければならない」(V.52)(1)。さてこの言葉だけであれば、それはプフェンダーたちのいわゆるミュンヘン現象学派がそうであったような独断論的な直観主義の言葉として理解することができるかもしれない。しかしフッサールの直観主義は、むしろ批判的な直観主義なのである。たとえばフッサールは後に『危機書』のなかで次のように語っている。「自我に到達すれぱ、われわれが明証性の領野に立っておりその背後へと湖って問おうとすることが無意味であることが理解されるであろう。しかしこれに対して、通常なされる明証性への訴えはすべて、それ以上遡って問うことが断ち切られているものであるかぎり、神が自己自身を啓示する神託に訴えること以上ではない」(W.192)。つまり『第一哲学』の言葉で語るならば、〈自然的明証性〉ではなく〈超越論的明証性〉が問題なのである。というのも、自然的明証性においては隠されたままになっているその認識の可能性の制約が、超越論的明証性においてはじめて認識されるからである([.30)。つまり、フッサールの明証性への還帰の運動は、いわばその〈批判〉としての超越論的自我への還帰の運動によって補完されねばならないのである。しかし、この超越論的自我への還帰の運動も逆にまた、いわば〈批判の批判〉としての明証性への還帰の運動によって補完されねばならない。なぜなら、「あらゆる原理の原理」を繰り返すまでもなく、明証性に依拠しないものはそれが何であれ権利づけられないからである。つまりフッサールにとっては、たとえばナトルプをはじめとする新カント学派のように、超越論的自我を論理的に要請するにとどまることは許されないのである。フッサールによれば、新カント学派は直観性を欠いていたために神話を捏造したのである(W.116f.)。それに対して、フッサールの批判的直観主義は〈批判〉を〈批判の批判〉にまで押し進めていく。つまりフッサールは、自然的認識に対する批判の究極の根拠である超越論的自我とそれに基づいた認識のすべてを、ふたたび批判に委ねるのである。三宅剛一博士が〈現象学の自己還帰性〉として指摘しておられる現象学の理性批判の根源性が、ここに見出されるのである(2)。
さて私は、フッサールの現象学的還元において方法化されたものとしての〈明証性への還帰〉と〈超越論的自我への還帰〉という二つの運動を図式的にではあるが示すことができた。問題は、この二つの運動が互いに区別される相互的な批判の運動であるという点にある。ところがフッサールは、『第一哲学』に先立つ一九〇七年の『五講義』や一九二二年の『イデーンT』の還元論においては、むしろこの二つの運動を同一のものと考え、超越論的自我は絶対的な明証性において与えられると信じ、批判的にその明証性の射程を問うことをしていない。それがはじめて問われたのが、『第一哲学』なのである。
『第一哲学』のなかでフッサールは、従来のいわゆる〈デカルト的還元〉においては区別されなかった〈超越論的還元(transzendentale Redukution)〉と〈必当然的還元(apodikitische Redukution)〉が区別されねばならないことを指摘している([.80)。つまり、『第一哲学』においてはじめて、超越論的還元によつて獲得された超越論的自我に対してあらためて必当然的還元を遂行し、その明証性の射程を問わねばならないと主張されたのである。フッサールはこの講義のなかでたとえば、「超越の批判は、根源的になるために、内在の批判をあらかじめ要求する」とも述べている([。378)。つまり、『第一哲学』は必当然的還元を導入することによって現象学の自己還帰性を方法的に確保しようとしたのであり、それだけでもこの講義の意義は小さくない。しかし翻って言えば、『第一哲学』の必当然的還元の導入はむしろ事柄そのものに由来している。というのも、『第一哲学』においては、超越論的自我の明証性に或る難問が纏わりついていることが示されたからである。私は、この超越論的自我の明証性の問題へ向いたいと思う。
フッサールは、『第一哲学』のなかで次のように述べている。「〈私は考える〉……は瞬間的な現在においては真に必当然的に確実であるように思われる。……しかし、私の超越論的過去は想起によってのみ知ることができるのだが、この想起は私をよく欺くのではないのか。結局、私の超越論的過去および未来は超越論的仮象になりうるのではないのか」([.169)。さてこの叙述だけからでも明らかなように、フッサールに超越論的自我の明証性を問うことを強いるのは、超越論的自我の時間性である。自我は、いまある自我であるだけではなく、かつてあった自我でもある。つまり自我は、フッサールが〈体験流(Erlebenisstrom)〉とも呼ぶ内在的時間の流れのなかにある時間的存在である。したがって、かつてフッサールが語ったように自我が反省、特に内的知覚によって絶対的な明証性において与えられるとしても、この絶対的明証性において与えられるのは自我の瞬問的な現在だけにすぎず、それを越えればもはや知覚されていない過去と未来の暗い地平が広がっているにすぎない。たとえ想起をいくら繰り返そうとも、自我の体験流の全体はけっして絶対的な明証性においては与えられないのであり、それは推測的な理念にとどまるにすぎないのである。しかしそうだとすれば、超越論的(transzendental)自我の明証性は、いわゆる〈射映〉を通してしか現われないことから推測的な理念にすぎないとされた超越的(transzandent)な事物の明証性とかわらないものに平準化されてしまうのではないのか。ところが、かつてのいわゆる〈デカルト的還元〉は、事物の明証性が相対的なものにすぎないのに対し自我の明証性は絶対的なものであるということにその方法論的な根拠をもっていたのである。
さて、自我の明証性に纏わるこの難問に対して、『第一哲学』の問題をふたたび取り上げた『デカルト的省察』は、明証性概念の再解釈によって自我の明証性を救おうとしている。つまり『省察』においては、『第一哲学』では区別されなかったく十全的明証性(adaequate Evidenz)と〈必当然的明証性(apodikitische Evidenz)〉とが、前者が対象の"selbst da" つまりその自己所与性の意識であるのに対し、後者は対象の"nicht anders sein koennen" つまりそれへの疑いの不可能性の意識であるとして区別されるのである(T.55f.)。フッサールはこの区別に基づき、自我の明証性は十全的ではないとしても必当然的であると主張する(T.62)。つまりフッサールは、自我が十全的に与えられるのはその現在だけにすぎないとしても、デカルトの定式を援用するまでもなくこの疑う自我が存在することは疑うことはできないと主張するのである。しかし、周知のようにデカルトによれば、私が存在するのは私が思惟している間だけなのである(3)。そうなると、問題ははじめに引き戻される。フッサールが必当然的明証性において与えられると主張する自我の存在とは、体験流のなかにある時間存在ではないのか。〈私はある〉はたちまち〈私はあった〉になるのである。ところがフッサールは『第一哲学』のなかで、「いかなる時間的な存在も必当然的に認識することはできない」と語っていたのである([.398)。フッサールがこの必当然的明証性という概念を、たとえばかつての『イデーンT』では伝統に即して、非時間的な本質認識に関わるものとして、時間的な事実認識に関わる明証性とは区別していたことを思い出さなければならない(V.337)。このことを思い出すならば、体験流のなかにある時間的存在としての自我が必当然的明証性において与えられないことは明らかである(4)。しかし翻って言えば、フッサールが『省察』において自我の事実存在に対して本質認識に関わる必当然的明証性という概念をあえて適用したことの背後には、フッサールが自我の根源的存在を時間的なものではなく非時間的なものと考えるに至る思考過程を読み取ることもできるのである。つまり、もし自我がその根源的存在において非時間的であるとするならば、それは必当然的明証性の公準を充足するものであるはずだからである。
さて、フッサールは『第一哲学』のなかで次のように述べている。「〈私はある〉とは、私が今生きているということである。……このような生き生きとした生という……意味においては……私があるのは今だけであり、私はたえず今だけをありつづける。〈私はあった〉とは、私がかつてあったものではもはやないということを意味するにすぎない」([.472)。この言葉は、〈私はあった〉に対する〈私はある〉の根源性を言い表わしている。つまり、自我はその根源的存在においては、体験流を貫いて時間的に存続している自我なのではなく、現在の自我なのである。なぜなら自我は、生き生きと機能している自我としては、つねに現在においてしか存在しないからである。一九三〇年代のいわゆるC草稿が〈生き生きとした現在(lebendige Gegenwart)〉と呼んだものも、そこにおいて自我がつねに機能しているこの現在にほかならない。さてこれだけであれば、フッサールはデカルトの言葉を繰り返しているにすぎない。しかし問題は、フッサールがこの現在は時間のなかにあるのではなく逆に時間はこの現在からはじめて生み出されると主張したことにある。つまりフッサールによれば、体験流の内在的時間の流れとは、この〈生き生きとした現在〉における自我のいわゆる〈時間化(Zeitigung)〉の働きによって構成されるものなのである。してみると、〈私はあった〉に対する〈私はある〉の根源性、つまり、体験流を貫いて時間的に存続している自我に対する〈生き生きとした現在〉の自我の根源性とは、フッサールにとってはデカルトをはるかに越えて、時間化された自我に対する時間化する自我の根源性なのである。つまりフッサールによれば、自我はその根源的存在においては時間化する自我として非時間的であり、したがって必当然的明証性の公準を充足するとされるのである。私は、一九〇五年の『時間講義』と一九三〇年代のC草稿を手掛りとしてこの問題を考えたい。
さて、かつてフッサールが『時間講義』のなかで語ったことは、意識の現在がいわば直線として表象される時間の継起のなかにあるひとつの時間位置にすぎないのではなく、むしろこの意識の現在は過去と未来をそのなかに含み込んでいるのであり、そのことによって逆に時間そのものを生み出すということであった。つまり、過去がもはやないものであり未来がまだないものであるにもかかわらず、それらがそのようなものとして意識されるのは、この意識の現在においていわば過去がまだそこにあり未来がすでにそこにあるからなのである。フッサールは、この意識の現在がそのつどの〈根源印象(Urimpression)〉に尽くされるものではなく、むしろ極限概念にすぎないこの根源印象はたえず〈過去把持(Retention)〉と〈未来把持(Protention)〉との連続的な移行のなかにあると語っていた(]。2A)。たとえば、鳴り終った音は消え去ってしまうが、その音はたった今あったものとしてなおも把握され(noch im Griff behalten)つづけるのである。ところで、この過去把持と未来把持とはたった今あったものまたはまさに来たらんとするものについての意識であり、それらが自我の能動的な意志志向性(Willensintentionalitaet)の働きによるものであることは、『時間講義』に対するフッサール自身の後の註釈が示している(]X.595)。つまり自我は、その現在の流れることのなかで、たえず流れのなかへ過去把持と未来把持の志向性を流し込んでいるのであり、そのことによって現在ではもはやなく現在ではまだないものをいわば引き留め引き入れているのである。しかしそうだとすれば、過去と現在と未来との連続的な継起として、いわゆる〈内観のアプリオリな形式〉である時間は、自我の働きとしてのこの過去把持と根源印象と未来把持の共在によって構成されると言わねばならない。カントにおいては静態的にしか理解されなかった〈時間〉は、フッサールにおいては〈時間化〉として動態化されるのである。つまり、フッサールがC草稿で語っていたように、「時間性はいかなるありかたにおいても自我の働きである。……流れはアプリオリに自我から時間化される」のである(Held, 101)(5)。さて、時間が自我によって時間化されるのであれば、この時間化する自我は時間のなかにはないはずである。フッサールは、C草稿のなかで次のように述べている。「この時間化においては、つねに今であり今でありつづける自我が、この生き生きとした今としてまたこの〈超時間的〉な今として、いっさいを遂行する自我である(それは、立ちとどまり滞まりつづける今として、物的な(=時間化された)意味での今ではけっしてない)」(Held, 117)。つまり、時間化する自我としての〈生き生きとした現在〉の自我とは、先時間的で超時間的な〈立ちとどまる(stehend)〉自我なのである。〈生き生きとした現在〉の現在とは、いかなる時間様相でもない。
しかしフッサールは、先に引用した「流れはアプリオリに自我から時間化される」という言葉に続いて、直ちに「しかしこの時間化そのものも流れる時間化である。〈流れること(Stroemen)〉はつねに先んじてある」と付け加えていた。たとえば、過去が意識されるのは自我の過去把持の働きによってそれがなおも把握されるためであるが、しかしなおも把握する働きとは把握されるものが過ぎ去ることを前提していると言わねばならない。『時間講義』の言葉で語るならば、過去把持と根源印象と未来把持という「滞留する形式を担うものはたえざる変移の意識であり、それこそ根源的事実」なのである(].114)。つまり、自我の時間化とはすでにC草稿のいわゆる〈流れること〉を前提しているものなのである。しかし、誤解してはならない。この〈流れること〉はあくまでも先時間的な出来事であって時間の流れではないのである。フッサールが語ったように、それはただ構成されたものに倣って〈流れ〉と呼ばれるにすぎず、それにはそれを真に言い表わす名称が欠けているのである(].75)。ところでC草稿は、この〈流れること〉が「自我の働きなしに生起する」ことを指摘していた(Held, 99f.)。つまり〈流れること〉とは、自我にとっての現在を支配している非我的(ichlos)で根源的に受動的(urpassiv)な出来事なのである。そうだとすれば、自我の能動的な時間化とは、この根源的に受動的な〈流れること〉によって喪われたものをふたたび取り戻そうとする志向的な意志に動機づけられたものにすぎない。フッサールは或るマヌスクリプトのなかで次のように述べている。「自我は原初的な現在のたえざる〈流れること〉に……つねに関係づけられている。そのことによって自我は…〈立ちどまり〉つつ同時に〈流れる〉のである」(Ms.BV9, 15)。つまり、自我はこの根源的に受動的な〈流れること〉のなかに投げ込まれているのであり、そのことによっ〈立ちとどまる〉自我は同時に〈流れる〉のである。しかし、〈立ちとどまること〉が同時に〈流れること〉であるという自我のこの内的な脆さはもちこたえることができない。つまりこの内的な脆さのために、時間化する自我は同時にそれ自身を時間化していく。先時間的な〈生き生きとした現在〉の自我は、たえずそれ自身を体験流のなかにある時間的存在へと時間化していかざるをえないのである。
さて、フッサールは『第一哲学』において、従来の現象学的還元は体験流への還元にすぎず必当然的還元ではなかったと語っていた(XV。411;413)。この言葉の意味はすでに明らかである。体験流のなかにある自我は、時間化された時間的存在として、必当然的明証性においては与えられないのである。しかしそれに対して〈生き生きとした現在〉の自我は、それが時間化する非時間的存在であるかぎり、必当然的明証性の公準を充足するはずである。してみると、必当然的還元がこの〈生き生きとした現在〉への還元として遂行されねばならないことには疑いを挾めない。ところが『第一哲学』は、この必当然的還元を遂行しないままについに断念しているのである。『第一哲学』の問題をふたたび取り上げた『デカルト的省察』においても事態は変らない(T.211f)。そうだとすれば、問題は〈生き生きとした現在〉への還元としての必当然的還元の『第一哲学』におけるこの断念がどのような事態に起因するのかということにある(6)。
さて、フッサールの超越論的現象学の方法が徹頭徹尾反省の働きのなかを動くものであり、現象学的還元もまたそのひとつの変型であることは、『第一哲学』の叙述が明瞭に示している([.86ff.)。つまり問題は、〈生き生きとした現在〉の自我への反省の可能性に関わっているのである。しかしそうなると、直ちに問題が生ずる。なぜなら、反省は自我から自我への反省として自我の同一性と分裂、その隔たりとその架橋とを前提しており、そのことによって反省は同時に、それが反省しなければならないところの〈生き生きとした現在〉の自我の〈立ちとどまること〉と〈流れること〉とをすでに前提してしまっているからである。つまり反省が可能であるのは、〈流れること〉によってつねに自我の自我自身に対する根源的な隔たり(Urdistanz)が生起しているからであり、また〈立ちとどまること〉によってつねにこの隔たりが架橋され自我と自我が根源的に合一(ureinig)しているからなのである(Held, 115f.)。フッサールが『第一哲学』において反省を〈後からの覚認〉(Nachgewahren)〉と呼んだのも、反省が自我の時間化を前提しているからにほかならない([.89)。しかし反省が時間化を前提しているとすれば、反省は時間化された自我を把握できるにすぎず、時間化する自我をけっして把握することはできない。つまり反省は、たった今あった自我を把握できるにすぎないのである。〈生き生きとした現在〉の自我は後からの覚認としての反省につねに先んじているのであって、反省は〈生き生きとした現在〉の自我に追い付くことができない。反省はただ、「時間化するものが時間化されたものとしてしか存在しない自己時間化」の謎を謎として開示するだけなのである(Held, 76)。
さて、『第一哲学』における必当然的還元の断念は、この〈生き生きとした現在〉の自我への反省の不可能性という事態に起因していると言わねばならない。というのも、〈生き生きとした現在〉の自我への反省が不可能であるということは、必当然的明証性の公準を充足するはずの〈生き生きとした現在〉の自我がけっして必当然的明証性においては与えられないということを意味しているからである。しかしそうだとすれば、そのことは超越論的現象学の破綻ではないのか。振り返ってみよう。フッサールの超越論的現象学は、〈明証性への還帰〉と〈超越論的自我への還帰〉という相互的な批判の運動によって領導されており、そのいずれをも欠くことはできなかった。しかし、『第一哲学』の必当然的還元の断念において示された事態とは、〈明証性への還帰〉が〈超越論的自我への還帰〉を阻止し、逆に〈超越論的自我への還帰〉が〈明証性への還帰〉を不可能にするということにほかならない。いわば超越論的自我の〈生き生きとした現在〉は明証化されず逆に暗箱)(ブラックボックス)化されるのである。しかしそうだとしても、そのことは超越論的現象学の破綻ではけっしてない。なぜなら、〈明証性への還帰〉と〈超越論的自我への還帰〉とが互いに阻止し不可能にしあうとしても、まさにそのことによって両者の相互的な批判の運動は生かされているからである。そのことによって破綻に瀕するのは、超越論的自我が絶対的明証性において与えられる超越論的絶対者であるとするフッサールのエゴローギッシュな自已解釈だけである。フッサールの方法としての〈明証性への還帰〉と〈超越論的自我への還帰〉の相互的な批判の運動は、フッサールの自己解釈そのものを乗り越えて超越論的現象学の新たな地平を切り拓くのである。というのも、〈明証性への還帰〉と〈超越論的自我への還帰〉との相互的な批判の運動は、超越論的自我の〈生き生きとした現在〉が暗箱化せざるをえないことを示すことによって、超越論的自我そのもののもはや根拠づけられない無底(Ungrund)を指し示すからである。フッサールはC草稿のなかで、「私は現在の生のなかに私の呪うべき真実でない矛盾に満ちた事実性(Faktizitaet)を担っている」と語っていた(Brand, 129)。超越論的自我はそれ自身のなかに追い付きえない事実性を担っている。というのも、超越論的自我は「自我の働きから生起するのではない」根源的に受動的な〈流れること〉のなかに投げ込まれているからである。フッサールが〈流れること〉という謎めいた言葉によって指し示そうとしたものを、われわれは〈生〉という言葉で呼ぶことができる。つまり超越論的現象学は、その〈明証性への還帰〉と〈超越論的自我への還帰〉の相互的な批判というその理性主義の極限において、理性の無底としての生に出会うのである(7)。
フッサールは、理性から下向していくことによって生を見出したのではない。逆に、理性へと上向していくことによって生を見出したのである。この事態は、打ち消しがたい仕方で理性に事実性を刻印づける。しかし、生が〈流れること〉として見出されたことは暗示的である。超越論的自我が〈流れること〉のなかに投げ込まれているという被投性において存在するだけではなく、その企投性において、つまり〈流れること〉によって喪われていくものを取り戻そうとする〈時間化〉の働きにおいても機能するとされたことが思い出される。私は、生の〈流れること〉に拮抗するこの〈時間化〉の働きのなかに、理性の根源的な働きを見たい。理性は、生をそれ自身の歴史とすることによってのみ、生に埋没せず理性として働くことができると思うのである。生というその無底に直面した理性は、歴史的理性としてはじめてそれ自身を実現する道を歩むことができるのではなかろうか。
このように考えたとき、超越論的現象学に新たな地平が拓けてくると思われる。つまり、〈明証性への還帰〉と〈超越論的自我への還帰〉の相互的な批判の運動としての超越論的現象学が問わねばならないのは、超越論的自我そのものの歴史性への問いである。現象学と解釈学との〈対話〉が唱えられている今日、現象学が真に解釈学と出会うことができるとすれば、それは現象学がこの問いを問い抜いたときであろう。
(1)『フッサリアーナ(Husserliana)』からの引用は、巻数をローマ数字、頁数をアラビア数字によって括弧内に表示する。
(2)三宅剛一『ハイデッガーの哲学』弘文堂、一九七五年、二八頁以下。
(3) R.Descartes, OEvre et lettres, Paris, Gallimard, 1953, p.277.
(4)『イデーンT』における〈形相的還元(eidetische Reduktion)〉の位置はこのようなコンテクストにおいて理解されねばならない。『イデーン』によれば、現象学的還元によって獲得された超越論的自我に対してあらためて形相的還元を遂行しなければならないとされていた(V.6)。なぜなら、事実の明証性が時間的なものとしてふたたび疑わしくなりうるのに対し、本質の明証性は非時間的なものとして繰り返しつねに妥当するからである。事実を本質のひとつの事例にすぎないとするフッサールのプラトン主義は、この事実の明証性に対する本質の明証性の優位ということによって根本的に動機づけられたものなのである。しかし、超越論的自我の次元とは、この事実と本質との関係を逆転させる次元であると言わねばならない。というのも、事実的自我は形相的自我のひとつの事例にすぎないものではなく、逆に形相的自我とは事実的自我によって構成されたものだからである。フッサールが一九三〇年代の或るマヌスクリプトのなかで述べたように、「超越論的自我の形相は、事実的なものとしての超越論的自我なしには考えられない」のである(]X.385)。事実的な超越論的自我とはいっさいの事実と本質との区別に先立った〈絶対的事実(absolutes Fakutum)〉なのである(]X.669)。このことを踏まえるならぱ、事実の明証性に対する本質の明証性の優位というフッサールの明証概念に含まれる先入見もまた、根本的な変更を余儀なくされるであろう。フッサールの〈明証性への還帰〉と〈超越論的自我への還帰〉の運動はまさに相互的な批判の運動としてフッサール自身のプラトン主義的自己解釈を破綻せしめるのである。フッサールにおける事実と本質の問題については、L.Landgrebe, Faktizitaet und Individuation, in : Sein und Geschichtlichkeit, K.-H.Volkmann-Schluck zum 60. Geburtstag, Frankfurt a.M., Klostermann, 1974(瀬島・常俊・魚住訳「事実性と個体化」新田・小川編『現象学の根本問題』晃洋書房、一九七八年、所収)を参照されたい。
(5)C草稿は未公刊である。したがって、引用は次の著作に拠った。G.Brand, Welt, Ich, und Zeit, Haag, Nijhoff, 1955 ; K.Held, Lebendige Gegenwart, Haag, Nijhoff, 1966. 引用は、著者名と頁数のみを括弧内に表示した。
(6)ところで、C草稿においては〈根源化された還元〉(radikalisierte Reduktion)として〈生き生きとした現在〉への還元がたしかに遂行されてはいる(Held, 66ff.)。しかし問題は、この〈根源化された還元〉がすでに必当然的還元として遂行されてはいないということにある。つまり、それは〈超越論的自我への還帰〉ではあっても〈明証性への還帰〉ではないのである。
(7)ところでラントグレーべは、このようなコンテクストにおいて、対象意識としての反省と遂行意識としての自己意識の区別、つまり、非対象的な自己意識が反省による対象化からつねに身を引くということから、われわれの〈自由〉という帰結を導き出している(L.Landgrebe, Der Weg der Phaenomenologie, Gueterloh, Mohr, 1963, S.200ff.)。つまり、われわれの〈事実性〉という私の帰結はラントグレーべの帰結の対極をなすものである。しかし私は、われわれの自由が有限の自由であるということを示したいと思ったにすぎない。たとえば、フッサールはC草稿において、「私は流れる現在として存在するが、私の対自存在そのものがこの流れる現在において構成されるのである」と語っていた(Held, 115)。この言葉は、反省だけではなく自己意識からさえも身を引く自我の無底を言い表わしているのである。